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新陰流と八卦掌の融合

やはり、何度検証してもそうだ。

新陰流と八卦掌は相性がいい。

「それはそれ、これはこれ」
「混ぜるな危険」
が武術家の掟^^;
しかも、かたや日本の剣術、かたや中国の徒手武術だ。
そして私は、新陰流は端っこを少し知っているに過ぎない。

なので、相当慎重に検証しているが、今のところ、やっぱりこの二流派は抜群になじむ、と捉えている。

これは、新陰流の特徴と、八卦掌の異常な柔軟性に拠るところが大きい。
新陰流創始者・上泉秀綱は「懸待表裡者不守一隅」と記している。
「懸る・待つ・表・裏」は別のものではなく、相手に随って円転・転変するものと述べている。

これは、八卦掌そのものではないか。

そして八卦掌創始者・董海川は、固定的な套路をつくらず、弟子の経験や特性に合わせて指導したことで知られる。
その結果膨大な八卦掌流派が生まれることになるが、董海川に言わせれば「どれも八卦掌」なのだ。

董海川が教えたのは「原理と現象」なので、いくらでも応用が効く。
ついにはそれがハワイであり得ない融合を果たし「ハワイアン八卦掌」として結実している。

「八卦掌とは原理と現象である」という点を学ぶには、むしろハワイアン八卦掌のほうがいいかも知れない。
ハワイアン八卦掌は日本では光岡英稔先生が指導しておられるので、ぜひ受講されたい。

かように柔軟なのが八卦掌だ。

新陰流と八卦掌の融合は、全然難しくない。
新陰流の正眼の構えを取り、そのまま右回転で円を描いて歩いてみればよい。
董海川なら「ああ、八卦掌だね」とあっさり認めるはずだ😅

新陰流の「風帆の歩」も、八卦掌の「平起平落」と極めて近い。
足の形状は少し違うが、要求としては同じものを求めている。

むしろ、草履・雪駄などの「鼻緒の履物」を履いたほうが「平起平落」を捉える近道だと思う。
逆に、現代のソール入りの靴は、平起平落を捉えるのを非常に困難にしてしまう。

新陰流を学ぶ上でも八卦掌を学ぶ上でも重要なことは「固定化してはならない」ということだ。

己を捉え、相手を捉え、内外有形無形を捉え、「気」から「機」を捉えることが肝要であり、その中で「形」は「現象の中でそうなるもの」であるが、学習者はともすると「形」を固定的に考えてしまう。

原理に随っていれば、確かに「形」は毎回同じになるのだが、

「原理に随った結果、現象として毎回同じ形に『なる』」

のと、

「こうするものだと固定的に決めつけて、その形に『する』」

のとでは、まったくもって似て非なるものとなる。

上泉秀綱や董海川にとっては「『する』ではなく『なる』」なのは当たり前だったが、現代人はこれを捉えるのがまず難しい。
現代人は「身体とは筋肉で動かすもの」と思っているからだ。

だから、現代人なればこそ、新陰流と八卦掌を併修することによって「『する』ではなく『なる』」が学びやすくなるかもしれない。

一度、お試しを😊

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