ゴールド・エクスペリエンス
昨日は内田秀樹先生の本年最終稽古に参加。
大変よい稽古をさせていただきました。
「経験」。
通常の感覚では感得できないことを「経験」によって理解する。
その経験は、王薌齋、あるいは李洛能や郭雲深、もしかすると董海川といった「既にいない達人」がどういう世界に生きていたかの手がかりになる。
通常の感覚では感得できない「経験」は「他者」の存在なくしては得られない。
その「他者」が「殺るか殺られるかの存在」である場合に初めて成立するのが、前述の「既にいない達人」の世界です。
そういう世界は、平和になり法治社会になればすぐさま失われます。
もちろんそれは必然の社会要請です。
形意拳が「形」だけになってしまったのは結構早く、その懸念が王薌齋をして意拳を創始する動機であったと言われます。
しかし王薌齋の弟子の中でも、王薌齋が示すものを正しく体得できた者はわずかだったとのこと。
韓氏意拳創始者・韓競辰先生が整備したのは、これを解決する「経験のプロセス」。
文献や映像だけで韓氏意拳を会得するのは不可能。
「経験」なくしては意味がありません。
先日の記事で「武術は伝承できないと思っておいたほうがいい。武術は伝承するものではない。都度、自分自身で作り上げるものだ」と書きましたが、このように語る前に、「伝承」という言葉をきちんと定義する必要があるかもしれません。
現代人…少なくともヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」を著して以降の人々は、「伝えること」を「コピー&ペースト」だと考えているかもしれない。
複製技術以前の時代は、「伝える」ことは必然的に「一回性」の「経験」を前提として行われていたはずです。
「経験」を通して、自らの身体性をもって会得することを「伝承」と呼ぶなら、武術は伝承されてきたことになります。
もちろんそれはコピー&ペーストにはならない。伝承者によってムラが出る。
しかし「一回性」の試行錯誤の中で、ときには創始者をも上回る天才も現れる。
こちらの「AI書道ロボット」が評判ですが、これはコピー&ペースト。
このロボットが、より優れた書を自ら生み出す可能性はゼロです。
なぜなら、このロボットには「感覚に基づく経験」がない。
https://twitter.com/sohbunshu/status/1209976154968297477?s=21
まあだいたいが、上下を逆にして行う書道なんて、もう完全に人間の感覚からかけ離れています。
形が同じなら「正解」。
正解を出せればOK。
我々は「正解」という「成果物」を受け取ればそれでOK。
こうした発想が、今の日本の教育の問題とオーバーラップしてきます。
本当に必要なことは「正解を出すこと」ではない。
試行錯誤のプロセスの中で、より良きものにたどり着くことのできる「人間」が求められているのです。
この違いがわからない教育なら、日本の衰退は必然でありましょう。