站椿は「静止する稽古」ではない
精度こそが最重要だ。
疲れてきて息切れしてガチャガチャしたものになるくらいなら、一回休憩したほうがいい。
ゆっくりじっくりでいい。
精度こそを上げる稽古を。
「息切れしてなおかつ高い精度を保つ」
稽古もなくはないが、そもそものベースの精度が低ければ話にならない。
そして、精度というものは極まることがない。
必ずその先がある。
故に、稽古のほとんどは「精度を上げる稽古」になる。
精度とは何か。
何に対する精度か。
これも、わからない人に言葉で説明するのは難しい。
形は重要だが、形は入口に如かず。
感覚は重要だが、感覚は入口に如かず。
我を鎮め、身体がどこに行こうとしているか、静かに耳を傾ける必要がある。
例えば、站椿。
站椿を「静止する稽古」と思っているなら、間違っている。
能動的に「する」のは、どうあれ違うのだ。
静かに站椿を行うと、全身でめまぐるしく「事が起こる」。
それを静かに観察していく。
「する」ではなく「なる」を観るのだ。
站椿から得られるものは「経験」から投影される。
故に様々な経験を積んでいくと、同じ站椿をやっても得られるものが違ってくる。
経験を積めば積むほど、站椿から得られるものは豊かになる。
適切な例えかわからないが、站椿はSLの「転車台」のようなものだ。
必ずここに帰ってこざるを得なくなる。
現代人が站椿だけずっとやってて王向斎のような強さが得られるかというと、まず無理だろう。
というか、王向斎も站椿だけやってたわけではない^^;
まあ、いろいろなことをやるのが大事ではある。
ただ、いろいろ試した上で「どこに戻るのか」がわかってないと、迷走することになる。
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