体罰に立ち向かう@戸塚ヨットスクール死亡事件より
「学校現場や家庭において、子どもの発達に体罰が必要である」と論じる者は多いいです。今回は戸塚ヨットスクールの死亡事件から、「体罰の是非」について考えていきたいと思います。本ブログがみなさんが体罰について考えるきっかけになればと思います。
■体罰ってなに?
まず、体罰の定義とは広辞苑によると、「身体に苦痛を与える罰」とされている。また、学校教育法11条によると、「校長及び教員は、教育上必要があると認める時は、文科部科学大臣の定めるところより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を与えることはできない。」とされている。つまり、懲戒は「有り」とされているが、体罰はしてはいけないと言うことが原則なのである。ただ、困難であるのは懲戒と体罰の境界線である。懲戒は、生徒指導上、生徒の問題行動を反省させて立ち直りを図り、正常な生活を送るために行われるものである。ただ、その懲戒が生徒の身体に対する侵害の内容とするものは体罰に該当するのである。そのため、懲戒の状況を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。そのため、個々の事例について考えたい。
まず、体罰について有名な事件として戸塚ヨットスクールでの死亡事件がある。記事によると、1980年から82年にかけ、コーチらから暴行を受けていた2人の子どもが訓練中に死亡。また、合宿中のフェリーから2人の訓練生が海に飛びこみ、行方不明になった。指導責任などを問われた戸塚氏は傷害致死の容疑で83年6月に逮捕され、懲役6年の判決が最高裁で確定した。しかし戸塚氏は刑期を終え出所した際の会見でも「我々が故意に少年たちを傷つけて死に至らしめたと言っているんだから冗談じゃない。体罰は教育です」と主張、教育に体罰が必要であることを訴えた。また、戸塚氏は「私も体罰世代だから、小学校の頃はよく殴られた。やられたけど先生に"ありがとうございます"と言えた。心の底から。おかげで自分が進歩したという実感がある。だから今度もこれを使って進歩できるなあと思う」と述べている。
■私の見解
私はこの一連の戸塚氏の主張に反対する。理由は3つある。
1つ目の理由は「体罰は暴力であるから」である。戸塚氏は体罰は子どもが進歩するために必要であると述べている。しかし、例え子どもがそれを望んだとしても、してはいけない。それは教師と生徒と言う関係以前に人と人であるが故に人を殴ったり、蹴ったりしてはいけない。立場を考える前に人としての立ち振る舞いをしなければならない。また、体罰による身体への悪影響は計り知れない。トラウマ経験が残る可能性も十分考えられる。暴力をする前に、何度も口で説明しなければならない。
次に2つ目の理由は「私がやられたからやる」は論理的説明になっていないからである。戸塚氏が昔体罰をされて成長した実感があることは事実である。しかし、戸塚氏の事例が全ての子どもたちに当てはまるわけではない。また彼が生きてきた時代と現代は大きく異なる。それゆえ、昔の事例を現代に当てはめることは誤りである。
最後の3つ目に体罰する教師は「子どもの可能性を待つ」ことができていないからである。子どもの発達とは個々の事例によって大きく異なる。子どもがスポーツができる時期や勉強が好きになる時期は個々の子どもによって様々である。そこで、体罰をしてしまうと言うことは指導者が子どもの発達を待てない結果である。子どもが発達していないがゆえ、痺れを切らし、体罰によって発達を促進しようとしている。この考えは指導者としてまず誤りである。指導者が指導したことが“今ここ“で理解したり、発揮できなくとも数ヶ月後もしくは数年後に発揮されれば、教育の成果は達成されたと言える。このように、指導者は子どもをそれぞれの事例に合わせて指導する義務がある。
■まとめ
なぜ今もなお、体罰が子どもを成長させると勘違いしている人、子どもを服従させ、自分が偉いと勘違いしているが多いのだろうか。私にはわからない。多様な価値観を認めることは大事だが、体罰だけは許せない。
このブログを綴りながら感じたことは、ぜひ子どもたちに「体罰をしてくる大人に対する武器」を持ってほしいと言うことである。武器とは当然拳銃でも、包丁でもない。論理で対抗する力だ。体罰を禁止する法律、頼れる大人を知っておくだけで、体罰に対抗することができる。その武器は決して攻撃するためのものではなく、そのように自分を守るための防御になる。
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