2023年 36冊目『職場の現象学: 「共に働くこと」の意味を問い直す』
この本は日本の人事部「HRアワード」2020で入選した本です。
概要に、以下のような説明があります。
HRアワードに入選したので良い本なのだと思います。
事例はよく分かります。
共著者の1人がいた前川製作所、巣鴨信用金庫、こころみ学園、桜えび漁業です。
こころみ学園は、障碍者がワインを作っている施設です。
日本のサミットでも各国首脳が絶賛したスパークリングワインを作っていることで有名です。
一度現地に行って工場見学をしたこともあります。
その人の特性に合わせて仕事を見つけ、それぞれの人も一生懸命働くのです。
身体が弱かった人も急な山を登れるようになり、荷を運べるようになります。
日常生活できなかった人もできるようになります。
素晴らしい職場でした。
桜えび漁業も、かつては船同士で争っていたのに、現在は協調しているのです。
漁獲高に制限を設け、しかも捕れたものは山分けするという仕組みになっています。
これにより資源を守りながら不必要な争いを無くしているのです。
山分けなのでフリーライドが出るのかと思うのですが、それは漁師さんのプライドが許さないようです。
人からもらうのではなく、人にあげたいと思うそうです。
のこりの2つの職場も素晴らしい職場です。
個人的には、普通の職場と比較する形で説明してくれると
良い職場の共通点がわかりやすかったのではないかと想像しました。
事例はよくわかると書いたのは、1章が難しかったからです。
用語がむつかしいのです。
よく似た言葉の違いが分かりにくいのです。
一例を挙げます。
あなたーあなた関係
この私にとってあなたの顔の表情は見えても、私自身の表情は、直接、見えません。
それはあなたにとっても同じで、私の顔の表情は見えても、あなた自身の顔の表情はあなたには見えていません。
お互いにあなたの顔の表情しか見えていないことが、お互いにとって「あなたの表情」に合わせる、「あなたの笑顔」を見たいことから、人の生き方が決まってくる、そのような人間関係を「あなた-あなた関係」と呼びます。
我−汝関係と我−それ関係
「我−汝関係」には、自我(自己)意識が形成され、自分と他の人との(自・他の)区別ができるようになる幼児の発達の前後の違いにそくして、乳幼児期の我−汝関係と自己意識形成後の我−汝関係に区別されます。
「汝」というのは、ドイツ語でDu(ドゥー)のことで、家族内の親しい二人称(親称)に対して使います。
しかし、この汝は、人間にかぎらず、身の回りの自然だったり、書物で描かれている精神だったりして、人間が全身全霊でそのつど向き合う汝であることができます。この態度で汝に向き合うとき、我−汝関係が成立するというのです。
それに対して、「我−それ関係」というのは、人間や自然や物事を客観的に距離をもって観察する態度のことです。
測定と評価など、この我−それ関係は、すべて形式知(→)で表現されます。言語と数式や記号による形式知で表現されるすべての学問の世界が、「我−それ関係」において成立しているといえるのです。
文法の用語である「人称」によって述べれば、「我−汝関係」は、「自分と相手が対する一人称−二人称関係」であって、「我−それ関係」は、相手を観察の対象とみなす「一人称−三人称関係」であるといえます。
人間関係の三層構造
人間関係は、M. ブーバーの「我−汝関係(→)」と「我それ関係(→)」との区別を基準にして、その成り立ち(構造)が三つの層によって「人間関係の三層構造」として説明されます。
第一の層は、幼児期の「我−汝関係」が生じている段階です。
ここでは、「自分が自分であるという自己意識」が形成しておらず、母親を代表にする「汝(あなた)」に対して全身全霊で直向きに、受動的綜合(→)による情動的コミュニケーション(→)をとおして向かっています。
第二の層は、能動的綜合(→)による言語的コミュニケーションが成立している段階であり、「我−それ関係」において、物事が客観的に理解され、人間関係が社会生活における経済や政治の活動として展開され、学問と文化が繁栄する段階です。
第三の層は、大人である成人の間に「我−汝関係」が生じる段階です。
このとき、相手とともに、共通した課題に、お互いに無心に我を忘れるほどに全身全霊でとりくむことで、お互いにとっての真の出会いが生じるような人間関係が実現するとされます。
人間関係の二重構造
人間関係は、受動的志向性(→)による受動的綜合(→)と能動的志向性(→)による能動的綜合(→)による、言い換えると受動的綜合による情動的コミュニケーション(→)と能動的綜合による言語的コミュニケーション(→)による相互基づけ(→) によってできあがっています。
この情動的コミュニケーションという下層部と言語的コミュニケーションという上層部との二重の構造が、人間関係の二重構造と呼ばれます。
運動感覚(キネステーゼ)
運動感覚というのは、自分の身体が動くとき、体内で感じる「動きの感じ」を意味しています。
地震で身体が揺れるとき、携帯を手に取ろうとしたりするとき、身体が動くときに体内で運動感覚を感じるのです。
また身体は動かなくても、立ったり、座ったりしているときも、重力に抗してバランスをとっているさいの運動感覚を感じており、声を出して話したり、歌ったりするときも運動感覚を感じています。
ですから、何か動いているものが見えるとき、たとえば、「空を飛ぶ鳥」が見えるとき、「鳥が空を飛んでいるその鳥の動きをみて、動いて見えるという感覚なのではありません。
それは動いている事物を外から見ている、いってみれば、動く視覚像の変化なのです。
未来予持(よじ)
「静かになったと思ったら、ついていたクーラーの運転音が止んだことに気づいた」という例で、「静かになった」と気づけたのは、静かになる前と静かになったときとが感じ分けられたからです。
「静かになった」と気づける前には、聞こえていなかった“クーラーの音”が意識されずに過去把持(→)され、それがそのまま、同様に意識されずに予測されていました(これが「未来予持」といわれます)。
この未来予持された“クーラーの音”が、そこに与えられないとき、“聞こえるはずのクーラーの音”の予測が外れ(未来予持が満たされず)、「意外さ、驚き」として感じられ、「クーラーの運転音が聞こえていたこと」に気づけるのです。
私たちのすべての感覚には、いつもこの未来予持と過去把持が受動的志向性(→)として働いているのです。
受動的志向性
生存本能のように、意識にのぼらずに働く志向性が受動的志向性といわれます。
この受動的志向性には二つの区別があります。一つは純粋な受動的志向性です。
それは、自分という自我の意識が生まれる以前の、つまり、自我の意識をともなう能動的志向性が生まれる以前の「純粋な受動的志向性」とよばれます。
二つ目の受動的志向性は、能動的志向性(たとえば「身体を動かす」という随意運動の志向性)が生じたとき、それが過去把持(→)をとおして記憶に残っていくとき、それは受動的志向性として残っていきます。
能動的志向性が受動的志向性に変化(変様)したのです。
能動的志向性を起源にする受動的志向性です。これを「能動性に由来する受動的志向性」と呼ぶことにしましょう。
能動的志向性
意図的な随意運動の場合、自我の意識をともなっていますので、能動的志向性が働くといわれます。
しかし、発生の順序からいって、本能的な自我の意識が生まれる以前の不随意運動が先に起こり、不随意運動の純粋な受動的志向性が生じています。
受動的志向性としての不随意運動をコントロールできるようになって初めて、能動的志向性としての随意運動が可能になるのです。
スポーツや音楽にかかわる習い事は、随意運動の反復による練習の積み重ねをとおして、それらの能力の向上が目指されています。
これらの能力の向上は、能動的志向性としての随意運動が練習されるたびに受動的志向性として身体記憶にのこり、継続する練習のさい、ことさら注意せずとも習慣化された不随意運動のように、無意識に随意運動が起こるようになることで実現されてきます。
顕在的志向性と潜在的志向性
「顕在」というのは、「はっきり表れていること」を意味し、「潜在」というのは、「現れずに潜んでいること」を意味しています。
たとえばゲシュタルト心理学(→)の「ルビンの杯」の例では、「杯と二つの横顔」が図と地に変換するとき、図になることが顕在的志向性が充実し、地になることが潜在的志向性になることを意味するのです。
ですから、「杯」が図として顕在的志向性になっているとき、「二つの横顔」は、地として潜在的志向性になっており、この潜在的志向性だった「二つの横顔」が図として顕在的志向性になるとき、それまで図として顕在的志向性であった「杯」が地として潜在的志向性になります。
この顕在的指向性が潜在的志向性になり、潜在的志向性が顕在的志向性になることは、能動的志向性と受動的志向性の変換に相応しています。能動的志向性ははっきり意識された顕在的志向性ですので、この顕在的志向性が背景に退き、潜在的志向性になるとは、能動的志向性が過去把持をとおして受動的志向性になることを意味しているのです。
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