書評:「1兆ドルコーチ」
『コーチング』という概念が日本にも徐々に輸入されてきていると思うが、その大元ともいえるシリコンバレーの伝説のコーチについて書かれた本である。ちなみに目次は以下のような内容である。
序文 ── シリコンバレー最大の伝説
Chapter1 ビルならどうするか? シリコンバレーを築いた「コーチ」の教え
Chapter2 マネジャーは肩書きがつくる。リーダーは人がつくる 「人がすべて」という原則
Chapter3 「信頼」の非凡な影響力 「心理的安全性」が潜在能力を引き出す
Chapter4 チーム・ファースト チームを最適化すれば問題は解決する
Chapter5 パワー・オブ・ラブ ビジネスに愛を持ち込め
Chapter6 ものさし 成功を測る尺度は何か?
彼、ビル・キャンベルがコーチをしたのはスティーブ・ジョブズやGoogle創業者などの錚々たる面々で、それら企業の時価総額は1兆ドルを優に超える。そんな彼がどんな人間だったのかを1行で表すならば、Chapter5にも書かれている愛だろう。
彼はビジネスに初めて愛“Love”を持ち込んだ男だ。隣人を愛せ、ではないがチームを、そしてチームメンバーを愛せ、というのが彼の教えだった。そして、チームのために働けない人間には会社を去ってもらうが、その際も必ず敬意を忘れない。
と、こういった話を聞くと外資系企業、特にアメリカ企業は徹底した合理主義を貫いているという印象から、非常に彼が稀有な存在だったのだと感じる。ただ、本の中で語られる彼の人柄を聞いていると下ネタを良く言う気の良いおじさんといった感じだ。
しかし、彼はただの良い人間ではなく、良い人間としての才能が圧倒的だったのだろう。あらゆる人が彼の人柄を評価している。彼の優しさ、心配り、そして周囲のあらゆる人間へのリスペクトが本文中のいくつもの場面で滲み出ていることもその証左だろう。
コーチングとはすなわち愛を持って人と接することで、それがビジネスを良い方向に導くということを、彼はその確かすぎる実績で証明したのだ。
チームが最大限のパフォーマンスを発揮できるのは、チームメンバー全員が互いのリスペクトを忘れない時で、そうでなければ誤った判断を下してしまう、とのことで聞けば最もだが実現することの困難さは察するに余りある。
ちなみに日本ではどのように受け入れられているのかは少し気になる。というのも、内資系企業で働いていて「愛社精神」というワードを聞いたことがないという人はほとんどいないだろう。
企業、ひいては同じ会社で働く社員同士の愛とは、正に本書でいうところのチームへの愛と言えるだろう。愛がある理想的な環境でこそイノベーションが生まれる、のならば日本企業ではなぜイノベーションが生まれないのだろうか。
そんな疑問も覚えたが、よく考えてみれば日本企業はイノベーションを起こしていないなどと言ったことは全くない。例えば、かのスティーブ・ジョブズがリスペクトというよりもはや憧れの感情を抱いていた企業は他ならぬ日本のSONYである。
もちろん、当時のSONYと今のSONYは内情も含めて大きく異なる部分はあるのだろうが、かつて日本企業が世界に認められる優れたプロダクトをいくつも生み出していたという確かな事実を忘れてはいけないだろう。
しかし、今となってはワークライフバランスや働き方改革といった概念が重視され、会社に一生を捧げるなどといった発想は時代遅れとなりつつある。ただ、「チームで仕事をする」という発想は現在でも色濃く残っているように思える。
アメリカでは個人主義が横行しているところに、コーチが愛を持ち込んで、個人としての成果ではなくチームとしての成果を最大化することを目指すマインドセットへの転換が成功したのを考えると、日本における全体主義の良し悪しは一概に判断できない。
そうなると、「日本の大企業」と「成功を収めている米企業」の差は何なのだろうか。日本企業の強みはよく「モノづくり」と言われるが、その技術は今でも世界的に認められていると言える。
だが、時代はIT化の一途をたどっており、ITに関してはアメリカの強大さは圧倒的と言えるだろう。Windows95もMacOSもアメリカで生まれていて、最近ではiOSもAndroidもアメリカである。そして、現代のイノベーションは“IT”無くしては実現できないのだ。
1兆ドルコーチ、ビル・キャンベルは「優れたプロダクト」を愛した。そして「プロダクトがすべてに優先する」と常に言っていた。
チームの仕事は優れたプロダクトを世に出すことで、コーチングはその障壁(成果を欲しがる人間同士の足の引っ張り合いや、ギスギスした雰囲気で行われる取締役会などにおける誤った判断)を取り払うために必要な作業に過ぎない。
そうなると、日本企業に足りないのは“愛”ではなく“プロダクト”ではないだろうかという気もする。では優れたプロダクトを産み出すチームはどのように創り上げることができるのか、についても何かヒントが欲しいところである。
ちなみにコーチングの中では「ずけずけとモノを言う」ことも重視されているので、この点は忖度文化の日本企業において足りていない部分であり、日本企業においてコーチングが不要だとは全く思わないが、アメリカとは異なるアプローチが必要な部分は必ずあるだろう。
何にせよ、チームを愛し、チームのために働くというマインドセットを持つことが重要だということだ。確かにビルの人柄は素晴らしく、会社にこんなアドバイザー的な存在がいれば、みんなが前向きに仕事に取り組むことができることは容易に想像できる。だがそれだけでは日本企業からGoogleが生まれない理由とは言えないのではないだろうか。