能登の被災地から撤退した災害派遣医療チームたち。
文字媒体のSNSとしてすっかりツイッターの後塵を拝しているこのnoteであるが、こんな拡散力の無い自分でも流石に身元が特定されるのはちょっと怖い。しかしどうしても言葉にして綴っておかなければならないと感じた出来事を体験したので、ここに記す。
私は診療放射線技師という仕事をしている。病院でレントゲンの写真撮ってる人だ。田舎の整形外科病院で毎日、手や脚が曲がってはいけない方向に曲がってしまったお爺ちゃんお婆ちゃんが救急車で運ばれてくる。
レントゲンの怪しい影を差して「先生、これ、癌ですね。」なんていうカッコイイ瞬間はほぼ無い。粛々とレントゲンのスイッチを押し続ける。スイッチマンって奴だ。しかしそんなスイッチマンの自分でも少しでもスキルアップしたいと思って毎年、職場の外部の技術交流会に参加している。
学術大会っていうとなんだか格調高くて堅苦しそうな響きだけど、要するに「こうやったらレントゲンで上手に写真が取れました!」っていう研鑽の成果を発表する全国大会だ。今年は沖縄。
日本中の病院、時には海外からも放射線技師の活動の価値を高めようと普段から切磋琢磨している達人クラスの放射線技師が集まってくるのだ。研究内容もレントゲン、CT、MRI、患者さんへの接遇に関することなど様々だ。
その中に今年は能登の被災地の救援活動へ出動したDMATチームの公演があった。
DMATとはDisastar Medical Assistance Teamの略で、災害時に派遣される救急医療チームのことなのだが、二次救急ながらも救急受け入れをやっている病院に勤務しているからには精鋭の救急医療チームの活動はどんなものか期待して講演を拝聴した私は、何だかガッカリした気持ちに襲われることになる。
登壇者が繰り返していたのは「無闇に被災地に行くな」「写真を撮るな」「『やってる感』より効率的な支援を」としきりにSNSで発信されていた能登の惨状を見捨てることを正当化するような数々の文言。
被災地で具体的に行った医療行為はと言えば、まだ震災によって機能が失われていない現地の病院の業務補助くらいだった。
DMATの本部に自分のデスクと座る場所を確保したことを誇らしげに語っていた。
被災直後の現場は騒然としていただろうし、我々放射線技師は、医療現場においてレントゲンなどの撮影機材が無ければコメディカルの中では限りなく一般人に近い存在だから仕方がなかったのかも知れないが、それにしたって今一つ具体的な活動内容が見えてこなくて、事前に想像していたような窮地に陥った被災地の人々を救うヒーローみたいな医療従事者のチームのイメージは自分の中でガラガラと崩れ去っていた。
挙げ句の果てに登壇者が最後に吐き捨てるように口にした一言は「被災地の食料に手を付けるな」。誰のことに言及しているのか想像がついてしまった私は、その講演が終わってもお愛想で拍手をする気にすらなれなかった。
意見や反論を受け付けないためなのか、他の講演では設けられていた質疑応答の時間もその講演の時だけはカットされていた。
後日、DMATの能登での活動を調べようとした私は更に戦慄させられることになる。
これは自民党の議員でもなければ財務省の官僚でもない、実際に能登の被災地の救援活動へ足を運んだ看護師さんの言葉である。
おそらく自分が大規模施設に勤務しているが故にギリギリの状況で戦っている地方の医療従事者の困難さに対して想像力が働かないのかも知れないが、私は目を疑ってしまった。
例えば災害時、避難所での生活で身体を動かす機会が減った人々、特に高齢者において血管内に血の塊ができやすくなり、それが心臓や肺の血管に入り込むと命の危険もある深部静脈血栓症(エコノミークラス症候群)という病気がある。
DMATはほとんどの隊が2024年2月で被災地から撤退したそうだが、同年11月現在、半壊した住宅や避難所での生活から元の暮らしに戻れない被災者は大勢いる。そういった人々の病気のリスクは全く改善が見られる兆しも無いのに、颯爽と被災地に駆けつけて、「あとは現地のマンパワーだけでなんとかしろよ」と言わんばかりに撤退していく。これが「仕事やってる感」以外の何物だというのか。
石川県能登を中心とした被災地の復興が遅々として進まないのは国家の政策の怠慢によるものだとSNSで発信するとあちこちから反論が飛んでくるが、その被災地に行くなと言っている人々の中には少なからず私達医療従事者も含まれているのかも知れない。自民党のバックには日本医師会だけじゃない、看護師協会や理学療法士など、ほとんどのコメディカルの団体が名前を連ねている。
私が支持している政治政党、れいわ新選組のリーダー山本太郎は国会質疑の中で何度も岸田前総理に頭を下げていた。
彼がそこまで必死になれるのは、もちろん被災地の人々を想う気持ちからだろうが、それと同時に何かしら被災地を見捨てることへの水面下でのコンセンサスを感じ取っていたのかも知れない。