動物とのコミュニケーションを追い求めて、今を生きている。 島田直明
もう20年くらいの付き合いになるが、島田園長(島田直明)との出会いをはっきりと憶えている。当時、キープラネットを主催していた川野真理子さんから講演を依頼され大宮ソニックシティで講演会が開催された。多くの講演家が集められたが、一番聞きたかったのが、島田園長の講演だった。小学生時代、「ムツゴロウ動物王国」に憧れ、動物と暮らすのが夢だったからだ。彼の講演時間、都合がつかず聞けなくて残念に思っていたら、島田園長が俺の講演会に来てくれたのだ。
4年前、園長とサシ呑みした時に書いたブログ(アメブロ)
島田園長は、東武動物公園の飼育係を20年、独立起業して「ふれあい動物園」を22年、TV「世界一受けたい授業」や「王様のブランチ」などに出演した友人。彼は、三度の飯より動物が好きで365日働いている生活を40年以上続けている。その純粋な活動には「美学」がある。時々見せる鋭い眼差しが熟練の職人を思わせる。極真空手・黒帯の彼は強面だが純粋、そして豪快にして繊細なのだ。その際立った存在感は、「命」を扱っているから生まれるんだと思う。彼が動物に魅せられたのは、生き物の持つ命の躍動感に触れたからだと勝手に考えている。
去年1,096回まで連続放送していたが、不定期放送となった今年一発目、1,097回目から1回10分、全9回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。
島田園長は東京都大田区生まれの60歳。親戚に「赤ひげ先生」と呼ばれた田舎の名士のような人がいて、「おまえも将来、医者になれ!」と言われて育った。ところが勉強にまったく興味が湧かない。幼少期から興味の対象は「昆虫図鑑」や「動物図鑑」だった。母親から聞いたエピソードでは、ようやく歩けるようになった2歳の頃、何度か泣いて家に帰ってきたことがあった。不思議に思った母親が後をついていくと、カマキリが威嚇するポーズを見て泣いていた、そんな幼児だったという。
小学生の時は体育が得意で小さな身体なのに、相撲は強かった。それまで自然の中で遊んでいたが、小4で中野区に引越しをしてガラリと生活環境が変わった。新宿歌舞伎町すぐそばの中野坂上の都会には、彼の遊び場がなかったのだ。
中学に入って野球に打ち込もうとするが、成長期に起こる「成長痛」で走れない。親とも喧嘩して「野球なんて、やめてしまえ!」と父親に言われた。小さいのに強い、漫画「山崎銀次郎」が流行った不良がカッコ良く見えた時代、友達から頼まれて喧嘩に行くようになった。中2の時、学校内で友達が刺してしまう事件が起きた時、目立っていた彼は首謀者にさせられてしまった。学校に居場所のなくなった園長は、中学を卒業した悪い先輩たちの集まる新宿歌舞伎町で裏社会を垣間見るも、中野駅で乗り換えて奥多摩の自然に触れることで自分の居場所を見つけることができた。一人、山に入って動物や鳥を観察しながら、「これは楽しい!」と思えた。
中3になって担任の先生に進路相談した時、生物部の顧問の高校教師を紹介してもらった。東京農業大学第一高校に入学した彼のマイルールは「学校内では喧嘩しないこと」。他校の生徒から喧嘩を売られたら買う、ヤンチャな高校生だったが、一番好きな時間は山の自然に触れ、生き物を観察することだった。
「何の仕事をしていくか?」周りは、東京農大に行って理科の先生になる人が多い中、教師になるのはピンとこなかった。もっと職人的な仕事に就きたかった。そこへ、先生から「おまえはバカだから、動物園に行け!」と言われた。そして、東武動物公園初代園長となった西山登志雄氏が紹介された。後に「カバ園長」の名で親しまれ、漫画『ぼくの動物園日記』のモデルになった人だ。ところが、なぜか動物園を造っている建設会社でネコ車 (一輪車)を使って土砂を運ぶ毎日。「俺は本当は動物園で仕事がしたいんです!」と現場監督に相談すると、すぐに西山氏と交渉してくれた。そして、4月から東武動物公園オープニングスタッフとして試用期間6ヵ月働き10月から正社員となった。
飼育係の最初の担当は30頭の牛。1年後は馬の担当になり、サラブレッドやポニーの乗馬コーナーを立ち上げ馬のトレーニングを始めた。1年間の馬のトレーニングを経て野生動物のアフリカコーナーの担当になった。21歳で憧れていたゾウ、キリン、カバ、シマウマなどの飼育係になった。新設された東武動物公園の構造上の不備で、大きな角を持ち体重120kgにもなる野生の羊バーバリーシープが逃げ出し、ジャンプして頭上を超えていく生命力を肌感覚で体験し、動物を追い込み、タックルして捕獲する技術を学んだ。ライオンを一撃必殺で倒すキック力を持つダチョウも弱点を知って100戦100勝で捕まえられるようになった。サイとパフォーマンスを披露できるほどの信頼関係を築けたと思った時、ベルトが角に引っかかって飛ばされる「死ぬかもしれない」と感じたトラブルが発生してから、コミュニケーションが上手く取れなくなってしまった。こちらの心を敏感に感じ取って突進してくるようになったサイに対して、心が波立たないようにするため、サイのお腹を潜り抜ける方法を考え実践し、1ヵ月後、心穏やかに接することができるようになった。
物言わぬ動物たちと相手が何を考え感じているかを考え、本質的な動物との関係性を構築する宝の時間を過ごせた。記憶力がいいゾウ、ライオン、チーター、ヒョウなどの猛獣を扱うことになった時、戦中時代を知る先輩たちから「動物を逃がすなら、その場で殺せ!」と言われ、そのくらいの覚悟が必要だとリスク管理の大切さを教わった。
3年間のアフリカコーナー担当を経て「ふれあい動物コーナー」のリーダーに抜擢された。当初は「俺様がウサギかよ」と反発があり、子どもたちから「父ちゃん、ウサギなら学校にもいるよ」と言われ肩身が狭い思いをした。でも、「なぜ、ふれあい動物コーナーのヒヨコやヤギに人が集まるんだろう」と、動物園のあり方をお客さん目線で考えた。
ヤギ、ヒツジ、ウサギ、ひよこ・・・滞留時間の長いお客さんを観ながら、触ったり、餌をあげたり、動物とのコミュニケーションを愉しみに来ていると知った。そこで会社に「世界一のふれあい動物園をつくろう!」と提案したが、対案の「動物公園内に木製ジェットコースターをつくる」企画が通り、38歳で独立起業を決意した。20年間、誰よりも働き、技術・技量・知識を実践して身に着けた自信もあった。会社に引き止められたが2000年1月に辞め、3月に起業した。
移動動物園「島田動物舎」オープニングスタッフスタッフは犬3頭、ミニブタ1頭、それに島田園長一人。起業して、すぐに会社の看板、「社会的信用」の大きさに気づいた。「柵をつくろう!」と仲の良かった業者に電話をかけると、「島田さん、自分でやることにしたの、凄いね。モノを運ぶ前にお金払ってよ」月末払いで良かった支払いが独立した途端、前払いになったのだ。東武動物公園時代、下請けの材木屋さんに横柄な態度で接するスタッフが多い中、島田園長だけが仲間として接した。その仲間と思っていた人から、今までなかった条件を突き付けられたショックは大きかった。「お祝いに丸太10本つけといたよ」くらい言われると思っていたからだ。明るいはずのバラ色の未来が悲しい色に見えた。真っ赤に染まった夕焼け空に東武動物公園のジェットコースターがそびえ立つ姿を見て悔しい思いをした。
そんな中、行けば行くほどファンになってくれる人もいて、自分のエネルギーとなっていった。「動物園に来てもらうんじゃなくて、こちらから行くニーズもあるはず」そう信じて仕事に邁進した。すると、イベントもスタッフも動物も増えて全国展開していった。ピーク時は1日全国6個所の現場に呼ばれたこともあった。しかも動物を乗せた馬運車を園長1人が運転して全国を回った。毎回スタッフたちとワイワイガヤガヤ修学旅行気分で楽しかったが、ピークシーズンとオフシーズンの売上ギャップがでてきた。そこへ東日本大震災が起きてイベントが全くできない。園長が選んだのは常設の会場を創ること。人類が狩猟・採集民族から遊牧民族、そして農耕民族に進化していったように移動動物園から常設のふれあい動物園を造ってコストを削減し経営を安定させたのだ。
今、常設会場は三拠点ある。箱根園内の「ふれあい動物園ZOOKISS」、東武動物公園内のたくさんの犬・猫と触れ合える「わんこヴィレッジ」、さいたま市のリス園を運営している。
この道一筋42年の島田園長の夢。それは、「人と動物の共生する場をつくること」。特に人と長く暮らしてきた犬と馬との新しい暮らし。それこそが本来あった人の暮らし。そして今、取り組んでいるのは馬とのコミュニケーション「ナチュラル・ホースマンシップ」。彼が目指しているのは、人と動物の共生の専門家。「今」を丁寧に小さな生き物たちの声に耳を傾けることが、自分たち人間の未来をつくっている感覚もあるのだと思う。人間にとって一番大切な命は生き物たちの命と結びついている。それが彼の言う「共生」だ。共生の美学とは、100年後に「島田園長、いいもの創ったね」って語り継がれるものだと思う。
「好きは世界を繋ぐ!」。
園長と話していて、獣医であり動物病院の院長ワッキーと同じ匂いを感じた。きっと究極の目的が一緒なんだと思う。SmartNewsのトップニュースでも取り上げられたワッキーのvoicyラジオをまとめて紹介したnote記事。
多くの人が他人の価値観で生きている。園長は信念と覚悟を持って自分の価値観を大切にして、自分の人生を生きている。そして、自分の好きなことに忠実に旅の途中こそ幸せと感じて、大変なことでさえ、その過程を楽しみながら歩んでいるように思う。園長には、俺自身ずっと支援・応援されてきた。次女が高2で発症した拒食症で入院し、4月に退院後、その年の夏休みに園長が運営する箱根園内の「ZOOKISS」でバイトとして雇ってくれた島田園長と和美さん夫婦には感謝しかない。初めて親元を離れて仕事をして回復に向かったからだ。園長の夢は、小学生の頃、動物と話したかった俺の夢でもある。だから、彼の夢をこれからも応援したい。
島田園長の還暦を祝った新宿での飲み会。
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