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コンプレックスとつきあっていく

 一時期、秋を感じて、ほっとしたものの、そう簡単にはいきません。
なかなかの残暑が襲っています。
はやる気持ちを抑えて、秋を待つ今日この頃です。

 今回は、コンプレックスについて考えてみました。
長い間、コンプレックスと共に生きてきました。
どんなに自己肯定感を繕っても、拭い去れないコンプレックスは、いつもそこにあって、暴走する私をひきとめていました。 身の程を知れと・・・。

コンプレックスは、見方を変えたら伸びしろだから、コンプレックスの数だけ成長させられてきたのかも知れないです。

私は幼児期に、人とかかわりを持たない、自分を閉ざしていた時期があって、その時は人と違っていても、コンプレックスをいだくことはありませんでした。
お遊戯ができなくてもそれは私がやらないだけで、閉ざした世界では、私は絶対だったからだと思います。
小学生になって、少し心を開けて人とかかわり始めるのですが、私は加減が分からず、暴走していました。  思い出すのも恥ずかしい思い出ばかりです。
そうして、人とかかわるようになって、はじめて怒涛のコンプレックスに襲われます。   
人とかかわることで、生まれる感情なんです。
人と比べることで、生まれる劣等感なんです。

コンプレックスには、内的なものと、外的なものがあると思います。
今お話ししていたのは、内的なほうです。
心のコンプレックスは対自分なので、比較的コントロールし易いと思います。 もっと言ったら見て見ぬふりを決め込んだところで、他人にはわからないので、抱えたまま、逃げ続けることだってできるんです。
不足感をなだめすかし、人と比べない、良くも悪くも自己受容なので、丁寧に向き合えば、丁度いいところが、見つかりそうです。

むしろ根深いのは、外的なコンプレックスだと思います。
外側といえば、ルッキズムになるのかと思います。
そこは持って生まれたものなのでどうしようもないし、自分が思うのと、他人が思うところが大きく違う可能性もあって、不確でやっかいなものです。

私事で言えば、若さに執着する気持ちがないといったらうそになりますが、それは受け入れていくしかないことです。
誰でも平等に年を重ねますから。
現実的なところでいうと、私の場合は、着たいものを着たいから、体形は維持していても、顔がついていってるのか不安です。
これは自分で客観的に判断することは難しいし、笑っちゃいますが、メガネをかけて、直視するのが怖いです。
年を重ねると視力が落ちるのは、そういう意味では理にかなっているやさしい現象にも思います。
樹木希林さんが生前、整形に対して「せっかくできた皺なのにどうしてとるの?」と話していたのを、印象的に覚えています。
皺も含めて年齢を重ねた事に自信を持てる顔でいられたらいいなと思います。  私は長い間接客業をしていたので、初対面でも、その人の背景とか、考え方とか、大まかなことは感じ取れます。
内面は外面に映し出されるといいますが、年を重ねると、もって生まれたものよりも、歩んできた人生が、顔だけではなく、佇まいにでます。
そう思ったら、外見も多分に、自己責任ですね。
でも自分のことはわからないものです。
結局うだうだと、私は後少しの自意識が、捨てられないだけで、我ながら面倒です。   めざす所は、滝藤賢一さんの世界観です。
男なんかい?と思います?
なんかだんだんドツボにはまって、ややこしくなってしまった気がします。
要するに、コンプレックスは、飼いならしても可で、いろんな付き合い方ができるものの、なにかをなそうとした時の原動力は、コンプレックスじゃない方がいいのかと思います。  不足感ではなくて、心の中に満ちて溢れるものが原動力となるのが素敵だとと思います。

追伸
覚えていて下さる方が、いらっしゃったら、ご報告です。
先日見つかった過去の小説の原稿ですが、ブラッシュアップして、少しずつ投稿しようと思っています。
目に止まったら読んで頂けたら幸いです。
感熱紙で文字が消えてしまった原稿は控えの原稿でした。 お騒がせしました。

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