村弘氏穂の日経下段 #23 (2017.9.2)
祝ふとはおほかた音を立つること拍手・歌声・祝砲・花火と
(横須賀 丹羽 利一)
祝福は届けるためにある。中でも、耳に届けることが多いだろう。祝杯の際の乾杯でも祭礼の音楽もしかり、祝事には音が不可欠のようだ。ただし、受け取った勝者はもちろん喜ぶだろうが、祝福する側がそれ以上に歓喜することもある。わざわざ結句末尾に助詞を付けてまで、字余りを作った理由は何だろう。もしかしたら並立助詞のあとには、あまりありがたくない、バカ騒ぎやサイレンなどの大音量が続き、過剰なまでの祝福の調べに、いいかげん辟易しているのかもしれない。そう考えると末尾の「と」は、その対極に存在する月や陽の光が、生きていることに静かなる祝福をしてくれていることや、それらに対して静かに祈りを捧げる行為と比較するための助詞なのかもしれない。
明け方のほの暗きなか目をこらし画数多き漢字読み取る
(門真 山本徳子)
早朝にいったい何を読み取ったのだろうか。目をこらしてまで、いったい何を読み取らなければならなかったのだろうか。この作品から読者は、その正解の漢字を読み取ることが出来ない。そういう風に作られた短歌なのだから。雨に濡れた朝刊の新聞記事だろうか、初めて訪れた旅先の道路標識だろうか、携帯に届いた緊急メールが文字化けしていたのだろうか、のどが渇いて目覚めた際にお寿司屋さんでもらった湯呑を見つめていたのだろうか。核心を詠み込まずに、一読した者に何らかの『興味を持たせる』ということも、短詩におけるひとつの修辞といってもいいだろう。ほの暗いシーンの中の判らない漢字が光る奇妙な歌だ。