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【書評】『クララとお日さま』カズオ・イシグロ(小説)

(作品の内容を含みますので、少しでもネタバレしたくない方は
ぜひ作品を読んでからお越しください)

裕福な家の子供は、AFと呼ばれるアンドロイドの親友を持つ近未来の社会。
AFのクララは店頭でジョジーという女の子に気に入られ、
ジョジー一家と共に暮らすことになる。
「向上処置」のせいで体調の悪いジョジーがもし亡くなったら、
クララをその代わりにしようと心の底で考えるジョジーの母親。
観察眼に優れたクララの目線で語られる物語である。

カズオ・イシグロの作品はいつも衝撃的で示唆に富んでいるけれど
今回の人間とアンドロイドの一種の成長物語は、とりわけ深く考えさせられる内容だった。

この物語に描かれる社会では、社会生活を身につけるために
「交流会」と呼ばれる子供同士の集まりが強制的に開かれる。
また、子供はアンドロイドの親友を買うことができる。
閉塞的で、歪な社会に映るけれど、昨今の生成AIの生み出す文章や絵や、その他諸々を思うと、
アンドロイドの親友だって決して架空の物語とは思えない。
クララのように動き回らないだけで、すでにこの社会で人間ならざるものとの会話は普通に交わされていて
現在進行形でメリット・デメリットが取り沙汰されてもいる。
カズオ・イシグロの描いた物語世界が、すぐさま現実に追いつかれようとしているかのようだ。

AF(人工親友)のクララは常にジョジーのためを思って行動するが、
成長したジョジーはやがてAFを必要としなくなり
クララは廃棄される運命にある。
クララは観察眼が人一倍、いやAF一倍鋭いため
その運命すら感じ取ってしまうところが、読んでいてとてもせつないところである。

また、ジョジーの母親が、もしジョジーが「向上処置」のせいで亡くなるようなことがあったら
クララをジョジーに仕立て上げれば、そのまま娘として愛せるのではないかと画策する場面は、読んでいて空恐ろしい。

いくらそっくりに真似ができるからといって、
誰かを誰かに置き換えることは、もちろんできない。
誰かを「継続する」なんてことは、できないのだ。

                    (2021/3 早川書房)

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