映画「ドライブ・マイ・カー」を観て
少し遅れましたが、ドライブ・マイ・カーを観ました。
やはり、アカデミー賞にノミネートされた話題作だけあって、とても面白かったです。
ただ、チェーホフの「ワーニャ叔父さん」を読んでいない人は、かなりわかりずらいかなと思います。もっと言えば、「カモメ」、「桜の園」、という三部作に流れる、ある種の「滅び」、「失われたものへの哀惜」などのような通奏低音を読み取れないと、「なんだこれ」となりかねない映画です。
事実、ヤフコメなどの映画評を見ると、「長すぎる」、「意味がわからない」などのコメントが並んでいます。
同時に、原作の村上春樹さんの作品の雰囲気をよく再現しているというコメントもあります。それというのも、このドライブマイカーは、まさに文学映画そのものだということです。
小説を普段から読み慣れていない人は、「ワーニャ叔父さん」を読んでいない以上に難しく、そして、冗長に感じるかもしれません。
確か年間読書人さんがnoteで書かれていましたが、今は、新海誠さんの映画のように、主観的没入映画が主流だと。主人公の視線に立って物語が進行し、そこで主人公が味わう喜怒哀楽をまるで自分が味わっているように感じられる。
つまり、ジェットコースターのようなアトラクション映画が受けるのだと。
まさに、そういう意味では、ドライブマイカーは、真逆の映画、つまり空気と想像を働かせる能の舞台のような、客観的な目で見る想像映画かもしれません。
具体的に言えば、主人公の夫婦の関係、ドライバーの女の子の親子関係などを、その表情や、情景から想像して楽しむ映画なのです。
もちろんどちらが素晴らしいというわけでもなく、映画に官能性を求めるなら、主観的な映画の方がいいでしょう。ただただ、映画の雰囲気に浸りたいと思う人は、客観的な映画の方がいいでしょう。
それは、映画に限らず、例えば登山に喩えると、喜怒哀楽を感じながらの山登り自体を楽しむ人もいれば、ひたすら景色の移り変わりを楽しむ人もいる。そして、その両方を味わいたいバランス型がいる。そういった違いかもしれません。
ただ言えるのは、一度登ってしまえばもう登らなくていいと思う人は、この映画はたぶん見返すことはないでしょう。もう一度見たら、また違う風景を味わえると思えると人は、この映画を何度も見直すことになると思います。
そして、この映画の主題、他人をどれだけ理解できるのか。理解できないとき、そしてそれを相手にもう伝えられないときどうしたらいいのか、その一つの回答を示してくれています。
結局は、ただ全てを受入れて苦しむこと。それがまた残された者の宿命であり、同時にそれが生きることだと。
その先は、チェーホフのワーニャ叔父さんでは、「苦しみに耐えれば死んだ後、必ず神様が哀れんでくれる」と、現世での救いを否定しています。そして、劇中劇の中の最後に、ソーニャも主人公を演じるワーニャ叔父さんにそう語りかけます。
たぶん、それが現実的な真実なのでしょう。真実だからこそ映画全体はとても暗く、哀しい後味になってしまいます。
しかし、「その悲しみに耐えながら生き残る、そして生き切るには、自分の車、つまり自分の生を、自分自身で運転すること、それしかない」という希望を、エンディングのシーンにおいて、女性の運転手の横顔が映り、かすかに浮かべる微笑みに、少しだけ目立たなくした傷跡とともに表してくれている気がします。
ではまた