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推論的世界【16】

【16】伝導の現象─“伝導体”をめぐって(1)

 伝導もしくは伝導体という概念をはじめて“使った”のは、いまから20年以上前、「キルケゴールの伝導体」という文章を書いたときのことでした。(このエッセイは、「冬弓舎」──内田樹『ためらいの倫理学』や清水高志『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』などを刊行した京都のひとり出版社、社主・内浦亨氏の事故死により活動停止──から出ていた中山元編集のムック『ポリロゴス2』に掲載された。その草稿はホームページの「補遺と余録」に収録している。)キルケゴールの伝導体

 この論考で、私は次のように書きました。

「私が伝導(体)について思いをめぐらせるようになったのは富岡幸一郎氏のカール・バルト論『使徒的人間』を読んでいて、バルトが、そしてキルケゴールが叙述する使徒の行い(報道)をベンヤミンの「翻訳者の使命」と関連づけて考えることができはしまいかとふと気づいてからのことだ。」

 バルトによると、「使徒」とは「空洞を露呈する人間」であり、イエスに啓示された神の意志を、何も手を加えず後代へ伝えてゆく者のこと。その行いを特徴づける「引き渡し」という語は、ベンヤミンが翻訳の根源的要素であるとした逐語性に通じています。

「こうした使徒の行いと翻訳者の使命が等号で結ばれるフィールドにおいて、媒介ならざる媒介として超越と内在の相互繰り込みの作用を営むもののことを私は伝導体(あたかも虚数と無限大の屈折率をあわせもち、光を全反射すると同時に閉じ込めてしまう固体プラズマのような?)と名づけ、キルケゴールの思索に、そして文学の営みに一瞥をあたえながらその実質を粗描してみたいと考えている。」

 かくして、伝導(体)という推論の営みが、キルケゴールの「間接的伝達」や「実験」、そして「反復」(=前方へ向かう追憶──本来の意味における「編集」と言い換えていいかもしれない)へとつながっていったわけです。とりわけ「反復(編集)」は、プロダクションにおける「引用(展示)」の、コンダクションにおけるその“発展形”とも言えるものだと思っています。

 柄谷行人著『探究Ⅱ』に次の記述があります。

《たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性であり、 特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つまり、彼は特殊性 (個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。だが、すでに明らかなように、 これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。(略)
 ドゥルーズは、特殊性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は、直接的(非媒介的)だという。このことは、スピノザの神の観念についていえる。それは「直接知」である。というのは、彼にとって「無限のなかで私は思いつつ在る」ことは、何ら証明(媒介)を必要としないし、証明すべき事柄ではないからだ。
 スピノザに「反復」の主題を読みうるとしたら、それは、自己原因的・能産的な自然(神)という考えにおいてだろう。そこに、「自然そのものにおける真の反復」(『差異と反復』)という考えが見出される。》(『探究Ⅱ』(講談社学術文庫)150-151頁)

         <観 念>
           :
          普遍性
 ∧         ┃
 概         ┃
  :一般性 ━━━━╋━━━━ 特殊性
 念         ┃
 ∨         ┃
          単独性

 柄谷氏の図は、私が想定している伝導体の構図(本稿第11節参照)にオーバーラップします。このこと(伝導体の構図)については、次回、主題的に取りあげます。
 ここでは、プロダクションにおける「引用(展示)」とコンダクションにおける「反復(編集)」が、内包や事象内容にかかわるリアリティの水平軸上にではなく、無内包の現実性にかかわるアクチュアリティの垂直軸上に位置づけられるものであることを確認するにとどめ、以下、伝導(体)という現象をめぐる“考想”と“素材”を(再掲を含めて)いくつか、未精錬・未編集のまま、箇条書きのかたちで“展示”しておきます。

■表層の伝導/深層の伝導

 以下は「哥」とクオリア/ペルソナと哥」第11章第1・2節及び第48章第3節の議論を再整理したもの。

・伝導現象(伝導という推論の運動)は、表象と連鎖という二つのエレメント──推論の対象もしくは素材を特定すること(表象=対象・素材)と、それらの対象や素材が相互に関係を取り結んでいくプロセス(連鎖=関係・プロセス)──に分解することができる。(佐々木健一著『日本的感性』の“部立て”に倣って、「表象=語彙(要素的なもの)」「連鎖=文法(複合的な関係性)」と言い換えてもいい。)

・表象と連鎖には、それぞれ深浅にわたる二つの相がある。
 表象は表現と表出の二つの作用に区分することができる。丸山圭三郎(『言葉と無意識』)の言葉を借りると、表現とは深層の下意識における抑圧されたパトスの解放とその表層におけるロゴス化、つまり「すでに在るもの」の記号化のこと。この意味での表現にはカタルシス(浄化)が伴う。
 これに対して、表出とは(表層意識はもとより下意識や潜意識といった深層意識をも欠いた、字義どおりの)無意識の解放もしくは連続体としてのカオスの非連続化(言分け)をもたらす根源的な働き、すなわち「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)のこと。この意味での表出は享楽もたらす。

・連鎖についてもこれとパラレルな二つの区分を考えることができる。
 表現と対になるのは、丸山氏がいうところの「等質的・同位相下の変換」や「隣接する位相間の移動」に相当するもので、水平的な伝達(もしくは模倣)のプロセスのこと。
 表出と対になるのが、同様に「異レヴェル間の生成変化へと拓かれる変態」にあたるもので、狭義の伝導あるいは垂直的な反復(もしくは引用)のプロセスのこと。

(ここでいう反復は、『夢分析』のなかで新宮一成氏が、「初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それは、自己が自己の現実を言葉によって初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うことの最も深い動機である以上、その夢がたとえ今朝見られたのであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。」と書いている、その「初めての夢」の再現に、すなわち、一回性をもった出来事を何度でも初めて「今、ここ」で経験することに相当する。)

・以上を整理すると次のようになる。

 表象(表層)=「表現」:「すでに在るもの」の記号化(浄化)
 表象(深層)=「表出」:「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)

 連鎖(表層)=「伝達」(模倣):同位相下の変換、隣接位相間の移動
 連鎖(深層)=「反復」(引用):異なるレヴェル間の生成変化(変態)

■ベルクソンの伝導体(conducteur)

 杉山直樹訳『物質と記憶』(講談社学術文庫)から。

《…私の神経系は、私の身体に振動を与える諸対象と、私から影響を与えることもできる諸対象のあいだにあって、単なる【伝導体】として運動を伝えたり分配したり抑止したりする役割を果たしている。この【伝導体】は、抹消から中枢へ、また中枢から抹消へと張りめぐらされた膨大な数の糸で構成されている。(以下、略)》(『物質と記憶』第一章、【 】は引用者による強調)

《…身体は、それに作用してくる諸対象と身体の側が影響を加える諸対象のあいだにあって一つの【伝導体】にすぎず、その役割は、さまざまな運動を周囲から取り集めること、そして特に引きとめない場合には、それらを何らかの運動機構、すなわち爻が反射的である場合にはすでに決まった機構に、意志的である場合には選択された機構に伝達していくことである。(以下、略)》(『物質と記憶』第二章)

《…われわれは身体について、それは未来と現在のあいだの動く境界であり、われわれの過去が絶えずわれわれの未来へと推し進めている動的尖端だ、ということができる。一瞬間において考察されれば、私の身体は、それに影響する諸対象と身体の側が作用を与える諸対象とのあいだの【伝導体】でしかないのだが、一転して流れる時間のうちに置き直されてみれば、それは常に、私の過去がある‘行為’へと消え行っていくまさにその点に位置している。(以下、略)》(『物質と記憶』第二章)

《【伝導体】は至る所に見て取られるが、中枢はどこにも存在していないのが分かるはずだ。端と端を合わせるように配置された神経線維、流れが通過する場合にはおそらく相互に接近し合う末端をもった繊維、目に目るのはこれですべてである。(以下、略)》(『物質と記憶』第三章)

■聖霊のはたらき/言語という仕組み

 伝導とは聖霊のはたらき(神の自己伝達作用)であり、言語(という伝導体)はこのアクチュアルな“はたらき”を概念化(一般化・内包化)する。

《このように、神は世界と人がそのなかに置かれる「場」、世界と人は神のはたらきを宿して現実化する「場所」である。世界のなかではたらく神は「ロゴス」…、人のなかではたらく神は「キリスト」と呼ばれ、それぞれが神との作用的一をなす。「神の作用の場」は、すなわち世界に遍満する「聖霊」の場である。聖霊とは〈はたらく神〉を、神のはたらきとして、世界と人間に宿らせる作用、つまり神の自己伝達作用だからである。またその結果として、人間に宿った神のはたらきは「キリスト」といわれる。すると神、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神)は三にして一だということになる。神は、はたらきの根源(究極の主体)、聖霊は、はたらきの伝達作用、キリストは、その結果人のなかに宿る神だからである。三位は、はたらきとして一で、はたらき方として三である。さらに「愛」は、神のはたらきと人のはたらきとの一(作用的一)…である。(以下、略)》(八木誠一『〈はたらく神〉の神学』45-46頁)

《言語とは、何かを伝えようとする側とそれが伝わる側とのあいだに、どちら側から見ても同一の事柄があるという前提のもとで(それを伝達するという仕方で)初めて成立する伝達の方法だ…。すなわち、それは、一つの客観的世界というものがあって、すべてがその一つの共通世界に収まるという前提のもとで成立する仕組みなのであって、逆にいえば、その仕組みこそがそのわれわれの世界をはじめて創り出している、ともいえる。》(永井均『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3』75頁)

《…「私」や「今」という語には、伝えようとする側と伝わる側とのあいだに、もともとは無い…「同一の事柄」を作り出す仕組みが内在しており、それが双方を一つの客観的世界の内に収めることになるのだ。われわれはみなすでにしてその仕組みの下僕である。》(『哲学探究3』75-76頁)

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