見出し画像

「私」がいっぱい(パート1.5)【7】

【7】補遺、永井哲学の三部作

 さて、ここまでの(やや長すぎる)“助走”を経て、ようやく本題が見えてきました。“永井の独在論”と“森岡の独在論”の対決がそれです。
 ここから先は、およそ次のような段取りで進めていくことになります、──まず、『〈私〉をめぐる対決』における「噛み合わない」議論の渦中に踏み入り、そこから“森岡の独在論”を垣間見るための素材を蒐集して「パート1.5」を終える。あわせて“永井の独在論”をめぐる「パート2.0」への足場をかためる。

 先へ進む前に、前回使った永井哲学の“中期”や“後期”という言葉をめぐって、少し“解説”を加えます。
 永井氏は、『〈私〉の存在の比類なさ』の「学術文庫版へのまえがき」で次のように述べています。「本書の二年後に、私は『マンガは哲学する』という本を書いており、それが後期の出発点であったといえる。結実するのは、さらにその四年後の『私・今・そして神』においてである」。
 これを執筆した当時、永井氏は還暦前だったはずですから、人生百年時代の“後期”の仕事が、五十台前半で「結実」するのでは計算が合いません。せめて“中期”と言うべきです。こうして、私は、永井均の仕事を前期・中期・後期の三期に分けて、それぞれの時期の主要な業績を、以下のように三部作のかたちで整頓することにしたのです。
(*はタイトルや内容を一部変更して文庫化された作品を表示。全面的に改訂されたものもある。)

★前期三部作
 『〈私〉のメタフィジクス』(1986)
 『〈魂〉に対する態度』(1991)
 『〈私〉の存在の比類なさ』(1998/2010)

★中期三部作
 『マンガは哲学する』(2000/2004/2009)
 『転校生とブラックジャック 独在性をめぐるセミナー』(2001/2010)
 『私・今・そして神 開闢の哲学』(2004)

★後期三部作
 『存在と時間 哲学探究1』(2016)
 『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』(2018)
 『哲学探究3』(連載中)

 前期三部作は「独我論から独在論へ」、中期三部作は「中心化された世界の存在論をめぐって」、後期三部作は「何度でも初めて哲学すること」などと、それぞれのテーマを設定できるかと思いますが、これはまだ思案中です。
(“後期”の仕事はまもなく「結実」するはずだから、これに続く第四期のことも考えておかなければいけない。たとえば“晩(成)期”とか“林住期”と名付け、さらに“没後期”まで用意しておいて、今後の永井哲学の“進展”に思いを馳せたいと思う。)

 ことのついでに、永井哲学のそれ以外の三部作を、変わり種も含めていくつか列挙しておきます。

★哲学者三部作
 『ウィトゲンシュタイン入門』(1995)
 『これがニーチェだ』(1998)
 『西田幾多郎 「絶対無」とは何か』(2006)
*『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』(2018)

★仏教三部作
 『〈仏教3.0〉を哲学する』(藤田一照・山下良道、2016)
 『哲学する仏教 内山興正老師の思索をめぐって』(山下良道・ 藤田一照・ネルケ無方、2019)
 『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(藤田一照・山下良道、2020)

★SNS三部作
 『哲学の賑やかな呟き』(2013)
 『遺稿焼却問題 哲学日記2014-2021』(2022)
 『独自成類的人間』(2022刊行予定)

★翻訳三部作
 『コウモリであるとはどのようなことか』(トマス・ネーゲル、1989)
 『ウィトゲンシュタインの誤診 『青色本』を掘り崩す』(2012)
*『『青色本』を掘り崩す ウィトゲンシュタインの誤診』(2018)
 『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート、2017)

★文庫解説三部作
 『現代思想としてのギリシア哲学』(古東哲明、ちくま学芸文庫、2005)
 『恋愛の不可能性について』(大澤真幸、ちくま学芸文庫、2005)
 『観念的生活』(中島義道、文春文庫、2011)

 三部作に仕立てることができなかった著作のうち、重要と思われるものを、身も蓋もない括り方で整頓したもの。

★その他三部作
 『哲学の密かな闘い』(2013)
*『新版 哲学の密かな闘い』(2018)
 『哲おじさんと学くん』(2014/2021)
 『今という驚きを考えたことがありますか マクタガートを超えて』(大澤真幸、2018)

 最後に、今後の議論にかかわる三部作を二つ。

★猫三部作(永井-森岡論争三部作)
 『翔太と猫のインサイトの夏休み』(インサイト、1995/2007)
 『子どものための哲学対話』(ペネトレ、1997/2009)
 『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(アインジヒト、2003/2011)

★永井-入不二論争三部作
 『なぜ意識は実在しないのか』(2007)
*『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(2016)
 『〈私〉の哲学 を哲学する』(入不二基義・上野修・青山拓央、2010)
 『現実性を哲学する』(入不二基義・森岡正博、刊行予定)

 最初の方は、森岡氏が猫だと言いたいのではなくて、登場する猫の名が、それぞれ英語・フランス語・ドイツ語で「洞察」を意味していて、このうち「ペネトレ」は、“森岡の独在論”のキーワードの一つ「ペネトレイター」と、語彙的に(かつ概念的にも?)つながっているのではないか、と言いたかったのです。(冗談です。)
 後の三部作には、入不二基義氏との間で“勃発”した論争が、永井哲学の“進展”にとって画期となったことを踏まえ、「パート1」(「私」がいっぱい・本篇)で取り上げた“前期”における論争に続く、“中期”および“後期”の論争に関連する書物を掲げています。(その詳細はいずれ、「パート2」か「パート3」で触れることになると思う。)
 なお、『現実性を哲学する』は、『現代哲学ラボ第4号 永井均の無内包の現実性とは?』(入不二基義・森岡正博、kindle版、2017)を書籍化したもの。「現代哲学ラボ・シリーズ」の第3巻として、『〈私〉をめぐる対決』に続く刊行が予告されています。

 補遺の補遺として。
1.以前ブログで、『〈仏教3.0〉を哲学する』をめぐって「永井均が語ったこと」という文章を書きました。[https://orion-n.hatenablog.com/search?q=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8]
2.“中期”および“後期”の「永井-入不二論争」について、Web評論誌「コーラ」[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html]に連載している『哥とクオリア/ペルソナと哥』の第62章第5節にその概略を書いています。

 追記。
 重大な疎漏を“発見”した。永井哲学を語る上で『〈子ども〉のための哲学』(1996)をはずすわけにはいかない。
 『これがニーチェだ』と『私・今・そして神 開闢の哲学』と組み合わせて「現代新書三部作」とするか、それとも『〈私〉の存在の比類なさ』(独在論の入門書)と『翔太と猫のインサイトの夏休み』(哲学一般の入門書)と組み合わせて「入門書三部作」とするか。同じく取りあげそこなった『ルサンチマンの哲学』(1997)/*『道徳は復讐である』(2009)と『なぜ人を殺してはいけないのか?』(小泉義之、1998)と組合せる(『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』を加えて「倫理四部作」とする)手もある。
 自著解説に従うならば、「前期三部作」に「『〈子ども〉のための哲学』以前三部作」の副題をつけて3+1冊のグループにまとめ、「中期三部作」に『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(独在論の倫理学的展開)を加えてこれも3+1冊にすると整合がとれる。

いいなと思ったら応援しよう!