見出し画像

韻律的世界【12】

【12】九鬼周造─現在は無限の深みを有った永遠の今である

 九鬼周造のオリジナルな議論を、『時間論』に収録された「文学の形而上学」から切り出した素材で確認しておきたいと思います[*1]。

1.重層性─文学の時間的本質

 音楽が音の「知覚」において成立している(音楽の質的時間の持続は音楽が実際に充たしている時間だけの持続である)のに対して、文学は言語に基く「想像」(非現実的なものを直観させる機能)を領域としている。すなわち一方に音の知覚と他方に言語による想像とが存在するため、文学の時間はすべて音の「知覚的時間」を下層とし、意味の構成する「観念的時間」を上層とする「重層性」を有つ。(129-130頁、135頁)

  橘やいつの野中のほととぎす(芭蕉)[*2]

「橘の匂いを現に嗅いでいる瞬間にかつて同じ匂いを嗅ぎながらほととぎすを聞いた瞬間が蘇ってきている。過去が再び現在として全く同じ姿で蘇っている。全く同じ二つの現在、無限の深みを有った現在がそこにある。時間が回帰性を帯びて繰り返されていると言ってもよいし、永遠の今が現に存在していると言ってもよいであろう。」(132頁)

2,永遠の今─詩の時間的性格

 文学の時間的本質は「重層性を有った質的な現在」であるが、この一般的性格はすなわち文学の種類によって種々に分化していく。すなわち文学の時間的構造において過去に重きが置かれているものは小説であり、未来に重きが置かれているものは戯曲であり、現在に重きが置かれているものは詩である。(142-143頁)

「過去を遠く辿れば未来に還って来るし、未来を遠く辿れば過去に還って来る。時間は円形をなしている、回帰的である。現在に位置を占めるならば、この現在は現在のままで無限の過去と無限の未来を有っているとも言えるし、また無数の現在の同一者であるとも言える。現在は無限の深みを有った永遠の今であり、時間とは畢竟するに無限の現在または永遠の今[第四の形而上学的時間]にほかならない。」(145頁)

「詩の時間的性格は現在的であるといって差支えないが、なおまた詩の現在はいわゆる「永遠の今」であると見ることもできる。永遠の深みを有った現在が詩の形式的規定の上にあらわれている。詩のリズムの反覆ということは現在が永遠に繰り返すことである。(略)現在が限りなく繰り返すことは、現在が永遠の深みを有っていることである。リズムのみならず詩が韻を踏むということも同様である。」(160-161頁)

  しづかにきしれ四輪馬車。
  ほのかに海はあかるみて
  麦は遠きにながれたり
  しづかにきしれ四輪馬車。
  光る魚鳥の天景を
  また窓青き建築を
  しづかにきしれ四輪馬車。
   (萩原朔太郎「天景」、『月に吠える』)

「現在が深みを有つように繰り返すのである[「しづかにきしれ四[し]輪馬車。」の中に「し」の音が四度繰り返され、この句自体が三度繰り返される(畳句)]。多少長い詩形にあっても、すべてが現在の一点に集注するように、技術上リズムとか韻とか行とか畳句とかまた反歌というようなものを用いてあくまでも繰り返すのである。長い詩形をそれによって謂わば短縮するのである。詩のそういう外形上の技術は詩を同じ現在の場所に止まらせて足踏みをさせているようなものである。詩を永遠の現在の無限な一瞬間に集注させようとするのである。」(164頁)

3.歴史性─文学の時間的性格

「…音楽が時間の単層性によって生命ないし精神の持続の形式そのものを表現し、従って最も印象の直接な官能的な芸術であるのに反し、文学は時間の重層性によって生命ないし精神を形式内容の両面にわたって全的に表現し、従って人間のいのちとたましいを有りの儘に示す最も深い人間的な芸術であるということができるのである。要するに重層的な質的現在ということが文学の時間的性格であり、歴史の時間性を背景とする文学の時間的性格を明かにして、文学の哲学的考察を終えようと思う。」(172頁)

[*1]檜垣立哉氏が『バロックの哲学──反‐理性の星座たち』第9章「九鬼周造の文学論──時間と韻」で「文学の形而上学」を取り上げている。

《あらゆる芸術が本来は現在的であり、とりわけ文学が現在的であり、そのなかで詩歌こそが現在的であるならば(まさに現在の独自の入れ子構造に九鬼は詩を追いこんでいく)、そこで「現在の深さ」である「永遠の今」を知覚的に示唆するリズムや韻こそが、芸術の根源的な要素と考えられるべきだろう。》(『バロックの哲学』276頁)

《詩が「韻」をもつ「繰り返し」を、観念的な重層性において描くことで、それは知覚的時間の水準で、つまりは水平的なエクスタシスの位相において、垂直性をもった「永遠の今」の、感知不可能な実在を感じとらせるのである。それが、九鬼の時間論としての文学論の、もっとも本質的な主張であるだろう。》(『バロックの哲学』277頁)

 「水平性、継起性、知覚性(感知可能性)」の横軸と「垂直性、同時性、観念性」の縦軸が交差するところに、瞬間としての現在が現象し、「永遠の今」が生起する。
 ──場違いな補注になるが、檜垣氏が言う「感知不可能な実在」と、次註で孫引きするプルーストの文章中の「現実的ではないのに実在的」の「実在」は、私の理解では「アクチュアリティ」であり縦軸のグループに入る。これに対して横軸に該当するのは「リアリティ」である。(ややこしい話になるが、「アクチュアリティ」の訳語として適切な語は「現実性」であり、「リアリティ」には「実在性」がふさわしい。)

      《永遠の今》     
          ┃
          ┃
      韻(字) α 韻(声)
  δ       ┃
  ↑        ┃
 想像━━━━━━╋━━β━━━知覚
         ┃       ↓
                 γ
         律

  α:「アクチュアリティ(現実性)」の垂直軸
  β:「リアリティ(実在性)」の水平軸
  γ:「マテリアルな実相」
  δ:「メタフィジカルな実相」

[*2]九鬼周造は講演録「日本芸術における「無限」の表現」(『時間論』所収)で、この芭蕉の句に対する注釈としてプルーストの『見出された時』(『失われた時』第七巻)の一節──「かつてすでに聴いたことのある一つの音、また嗅いだことのある一つの匂いが、現実的ではないのに実在的なもの、抽象的ではないのに観念的なものとして過去と同時に新たに甦るとき、たちまちにして、いつもは事物のうちに隠されている永遠の本質が解放され…」──を与え(48頁)、続けて蝉丸の“これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関”を取り上げている。

《ここにも「失われた時」…と「見出された時」…の例がある。逢坂の関、…それは二つの道、すなわち過去と未来が出会う瞬間であり、無限に充実した現在の時…、ツァラトゥストラが…それについて語った永遠の時であり、…聖なる時である。(略)またそれは、われわれがいまポンティニーのこのサロンで過ごしている時、私が蝉丸の詩句についてあなたがたに語り、われわれがかつてすでにこのこの同じ時を共に過ごしたことがあったかどうか、そして再びこの時を共に生きようとしているのではないかどうか、──われわれはすでに無限回知り合っていたのではないかどうか、そして再び新たに知り合おうとしているのではないかどうかをまさに自問する時である。われわれの尊敬すべき盲目の蝉丸に偶然と周回する時間の問題…に関する考察は任せ、いまは‘琵琶’を取って、われわれのために古いやまと歌を奏でるよう、乞い願うことにしよう。》(『時間論』49-50頁)

いいなと思ったら応援しよう!