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【書録切書】 五月三日条 (『アースダイバー 神社編』ほか)


※直近で読んだ本の中で、心に残った箇所をまとめていきます。
  名言集みたいな感じで読んでもらえればと思っています。


■一覧■

中沢新一『アースダイバー 神社篇』(講談社、2021年)
宮本常一『民俗学の旅』(講談社、1993年)
岡本太郎『美の呪力』(新潮社、2004年)



■ 中沢新一 『アースダイバー 神社編』 ■


 縄文社会はエコロジカルな社会だった(!?)

縄文人は価値が増えること(剰余価値)を認めない。したがって自然にたいして投入した価値が、タイムラグをへて利子をつけて増えて戻ってくるという考えを認めないであろう。そのため、投入量をはるかに超えて収穫があったときなどは、祭りや他の村への贈り物として、その年のうちに消費してしまわなければならない、と考えたであろう。(中略)弥生人の世界では、世界は基本的に増殖していくものである(25頁)。

「縄文(冷たい社会)」vs「弥生(熱い社会)」という構図。「クール・ジャパン」と言うけれど、一番「クール」な日本人は縄文人だったみたい。モース『贈与論』バタイユ『呪われた部分』なども参照されたし。


この環太平洋的特性の一つとして、文化の深層部に「三元論」が組み込んであることをあげることができる。現代人には三元論の思考はあまりなじみがない。現代人の思考にもっとも大きな影響を及ぼしている科学的思考は「二元論」でできている。どんな命題も「正しい」か「偽である」かのどちらかでなければならず、「正であり、かつ偽である」や「正でもないし偽でもない」は、そこで受け入れられない。(中略)ところが三元論の思考では、「正でも偽でもない」という中間的存在が認められていて、重要な役割を果たすことになる(35頁)。

>二項対立のその先。神話とは、言語道断なのだ。


環太平洋の古層文化では、その力のあらわれを示す「垂直的な動き」を、蛇、雷、山などで象徴しようとした。蛇や雷や山は世界の奥に現れている力を、垂直性の運動とともに現実世界に顕在化させる。その運動が二元論の組み合わせでできた世俗世界を横断していくとき、この世界には全体性がよみがえる。/そういう垂直性の力のあらわれを示す場所が「聖地」に他ならない(中略)環太平洋の古層文化の人々は三元論の思考によって、このような聖地を移住していった先々で見出して行ったのである(36頁)。


そのカオスの渦のまっただなかで、御柱が垂直に立ち上がるのだ。御柱は天界と地上をつなぎ、カオスの中に「コスモス」を立ち上がらせる。聖なる時間が支配するなか、カオスを踏み立てて、そこからコスモスが出現する。(中略)御柱はカオスとコスモスの合体、カオスモスなのである(144頁)。

>所は移って諏訪の話。垂直に立てられた御柱は「世界軸(axis mundi)」となって、世界の秩序を支え持つ。
>そういえば院政期に流行った「強訴」では神木を都へ持って行ってたけど、あれにも通ずるところがあるのだろうか。


縄文人は、別のジャンルの似ているもの同士を、「同じもの」として認識する、比喩の能力にすぐれていた。彼らは、動物の解体から得た胎生学的な知識と、自分たちの「心」の深層領域で起きていることが、じつによく似ていることを知っていた(168頁)。

折口信夫も「類化性能」にすぐれていた。


無意識は宇宙と同じくらいに大きいが、現実世界にあらわれるときには、小さい子供のような存在になる(176頁)。

オオクニヌシと共に国を治めたスクナビコナは無意識の象徴であるそうだ。



■ 宮本常一 『民俗学の旅』 ■


 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者のエッセイ。その言葉には民俗学にとどまらず、広く誰にでも通ずるものがある。

人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分えらんだ道をしっかり歩いていくことだ(38頁)。

>宮本が故郷から大阪へ出る際に父から贈られた教訓の1つ。


郷里から広い世界を見る。動く世界を見る。いろいろの問題を考える。私のように生まれ育ってきた者にとっては、それ以外に自分の納得のいく物の見方はできないのである。足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない(59頁)。


資料をただ同じようにならべて比較するだけではかえって本質を見失うことだってあり得る。むしろ遠近法によって重要なもの身近なものを中心に、重要でないものを周辺において考えていくようにすればかえって物の本質がわかってくる(75頁)。


大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときはだまってしかも人の気にならないようにそこにいることだ(98頁)」

渋沢敬三渋沢栄一の孫、「アチック・ミューゼアム」の開設者)から贈られた言葉。


人はそれぞれ自分の歴史を持っているのである。まずそういうものから掘り起こしていくこと、そして生きるというのはどういうことかを考える機会をできるだけ多く持つようにしなければいけないと思った(193頁)。


文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう(203頁)。


とにかく自分の眼でたしかめてみることが何より大切である。それも漫然と歩くのではなく、何かテーマを持って歩くようにすすめている(205頁)。


過去を掘りおこすことは、われわれの先祖の姿を矮小視することではない。過去のすべてを掘りおこすことを目指さなければならないと思う。/過去が矮小なのではなく、今生きている自分自身が矮小なのである(220頁)。



■ 岡本太郎 『美の呪力』 ■


 1年くらい前にアトレ上野の「明正堂書店」で岡本太郎フェアがやっていたので、それに釣られて色々読むようになった。

はじめに怒りありきーー私はそう言う(101頁)。


受けて立つのでなければノーブレスはひらかない。それは聖なるものの大前提である。闘争において、果敢に攻めると同時に、また運命的受身、倒される側の様相がなければ、それ自体決して生きないのだ。攻めるなら攻めてみよ。そこに何か悲劇的なドラマ、美がある(120頁)。

>「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」ということか。


このような哲学的思弁はともかくとして、私が実感としていつも感じるのは、人間生命の根源に、何かが燃え続けている。誰でもが、いのちの暗闇に火を抱えているということだ。そのような運命の火自体が暗いものである(186頁)。


綾とりははじめも終りもない。循環する鮮やかな、くっきりした形をひらきながら、目的的な完結がない。(中略)瞬間に形になり、瞬間に消えてしまう。だからこそまた一つ一つのイメージが鮮やかに心に残る。紐はものではない。ただ展開し、流れてゆく。運命である(240頁)。




【追記】子子子子子子子子子子子子」は「ねこのここねこ、ししのここじし」と読む。それでは、「タタタタ子子」はなんと読む?
ヒント:日本神話に登場する、三輪大社ゆかりの人物。「お○○○○こ」。
答え:次回投稿する時、【追記】に書きます。

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