世界の中の日本⑤パラオ共和国ー深い絆の残るペリリュー島
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「世界の中の日本」は、世界の国と日本の関係について、国ごとにご紹介していく企画です。
5回目の本日、ご紹介するのが、パラオです!
パラオは一説によれば、世界で一番の親日国と言われています。
太平洋上の小さな島国、パラオがなぜそんなに親日なのか?
今日はその秘密をご紹介していこうと思います‼
パラオとは?
パラオの正式名称は「パラオ共和国」。
首都は「マルキョク」。
以前は「コロール」という街が首都でしたが、2006年に現在のマルキョクに遷都されました。
パラオは、西太平洋にあたるミクロネシアの386の島々から構成されており、実際に人が住むのはその中でも10程度の島のみだそうです。
人口は21,400人ほど。(2017年統計)
日本とはほぼ同緯度に位置しているため、日本との時差はありません。
1994年にアメリカ合衆国から独立したばかりで、公用語はパラオ語、英語になります。
なお、パラオ諸島の中には、第二次世界大戦時の「ペリリュー島の戦い」で有名な、ペリリュー島が存在しています。
パラオが親日国なのはなぜ?
なぜ、パラオが親日国なのか。
大きな理由の一つは、パラオが第二次世界大戦が終わるまでの31年間、日本の委任統治下に入っており、日本に馴染みがあるため。
井上和彦著「パラオはなぜ『世界一の親日国』なのか」という書籍にもありますが、パラオは「世界一の親日国」であるとも言われています。
大まかに言うと、パラオでは今でも、日本統治下での印象が良く、大国であるアメリカ軍と勇敢に戦った日本人への評価が高い、ということになりそうです。
パラオ国内には、日本から影響を受けた文化が多く残っており、それも親日家が育つ土壌になっていると思われます。
日本の統治下にあったことがあり、その時の印象が良かったために親日国となる、というのは以前取り上げた台湾と同じですね。
パラオの歴史
パラオの歴史は、列強による支配の歴史でもあります。
16世紀以降の主な歴史を見てみましょう。
パラオは、スペイン、ドイツの統治を経て、第一次世界大戦後に日本の委任統治領となります。
第二次世界大戦が終わる1945年までの31年間、日本統治下に置かれていたわけで、日本語が堪能で、日本に詳しい方が多いのも納得ですね。
日本の委任統治時代
委任統治開始後、日本政府はパラオの近代化のために、インフラ整備や教育制度・医療施設の整備を行い、生活水準の向上が図っていきます。
道路や水道、電気など、人々の生活に欠かすことのできないインフラが整備されたことは、地元パラオの人々にとっても大きなことでした。
また、日本政府は、地元民の学校教育に力を入れました。
パラオの現地人に対して、日本語教育を行い、日本語による歴史、地理、理科などの授業が行われたそうです。
これらの政策は文化統制と言われることもありますが、力を入れた結果、パラオの就学率は93%となりました。
これは、他の欧米列強の統治領とは比べ物にならないくらいの高い就学率だったそうです。
日本統治時代の名残として、現在でもパラオの学校では日本語の授業があり、簡単な日本語であれば理解し話すことのできる国民が多いそうです。
日本統治時代を評価する声もある
日本のアジア統治というと、眉を潜めて「ひどい目に遭った」と主張する近隣諸国がいる一方で、パラオの国民からは、そのような批判が出てくることがあまりありません。
委任統治時代を経験したパラオの高齢者の多くは、日本政府による支配を恨んでおらず、肯定的にとらえているそうです。
結果的に国が発展したのであれば、その時代の統治は良いものであった、と言われることが多いですよね。
第二次世界大戦後、アメリカの統治下に置かれると、スペイン・ドイツ時代よろしく、再び放任状態になったと感じるパラオ国民が多かったようです。
放任状態というか、日本が手厚い政策を行ったために、落差が激しく感じられたのかもしれません。
パラオに残る日本文化
パラオには現在に至るまで、日本から影響を受けた文化が多く残っています。
例えば、パラオには日本語由来の現地語が多く残っています。
今でも使われている日本語としては、「センプウキ(扇風機)」「オカネ(お金)」「デンワ(電話)」「コイビト(恋人)」「ダイジョウブ(大丈夫)」などが挙げられます。
そのほかにも、パラオではNHKが放送されています。
そのため、日本語での簡単な日常会話が可能な方も多いそうです。
日本統治時代に日本語教育を受けた高齢者層は、日本語を不自由なく流暢に話せる方も多いようです。
そして、何よりもありがたいのは、かつて米軍と戦った日本軍の兵士たちの雄姿を、パラオの人たちが覚えてくれており、その武勇を語り継いでくれていることでしょう。
パラオの国旗
パラオの国旗は、アメリカの統治から独立した際の1994年に制定されました。
どことなく日本の国旗と似ていますよね。
パラオ国旗は“月章旗”と呼ばれ、日本の日の丸のデザイン(日章旗)を意識していると言われています。
このデザインは住民投票で選ばれ、国民の親日感情が大きく影響したのではないかとのことです。
現在のパラオと日本
現在は、パラオに移住している日本人も多く、とても住みやすいそうです。
住みやすい理由はもちろん、日本語が通じるところが多く、英語を使わなくても生活できるから!
あまりにも日本語が通じるので、ビックリする日本人観光客も多いそうです。
日常生活においても日本語表記が多く、片言しか英語が話せなくても、生きていけるのだとか。
逆にパラオ人の皆さんの方が、日本語に適応してくださっているそうです。
また、公用語に英語があるので、英語の勉強にも適しており、語学留学のためにパラオに行く日本人もいらっしゃるそうです。
ペリリュー島の戦い
パラオの人たちは、かつて米軍と戦った日本軍の兵士たちの雄姿を覚えており、その武勇を語り継いでくれている。
そうのようにご紹介しましたが、日本とパラオの関係を語る上で、避けて通れないのが、ペリリュー島の戦い。
パラオ諸島には第二次世界大戦下の激戦区の一つ、ペリリュー島があります。
1944年、ペリリュー島に侵攻してきたアメリカ軍を迎え撃ったのは、中川州男大佐率いる日本軍守備隊。
アメリカ軍の当初の計画では4日で陥落する予定でしたが、要塞化した洞窟陣地やゲリラ戦法により、最終的には攻略に2か月半を要し、アメリカ側に大きな打撃を与えたと言われています。
パラオではこの中川州男大佐への尊敬も鳴りやまず、親日感情への大きなきっかけとなっています。
島民に一人の死者も出さなかったペリリュー島の戦い
歴史に名高い、ペリリュー島の戦い。
自分たちは全員玉砕(戦死)しましたが、ペリリュー島の島民には一人の死者も出さなかったことで有名です。
米国が上陸する直前に、日本軍は島民を全員、パラオ本島へ退避させていました。
この時、島民たちと日本軍人たちの感動的なエピソードが語り継がれています。
いよいよアメリカ軍が迫ってきており、戦いの火ぶたが切って落とされる!という状況のペリリュー島。
当時は島民たちも一緒に戦いたい!と言っていたそうですが、日本軍のある将校が「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか!」と叱責し、無理やりパラオ本島行きの船に載せたそうです。
島民たちは、なぜあんなに怒られなければならなかったのか、不審に思いながらペリリュー島を離れました。
その後、日本軍が全員戦死したと知った島民たち。
自分たちの命を救うために、将校があえてキツい言葉で突き放したのだと気づき、涙が止まらなかったと言います。
このあたりの恩義が深く刻まれ、現在に至るまでの親日感情に繋がっていると考えられます。
<まとめ>
いかがでしたでしょうか。
今回のポイントをまとめておきますね。
パラオ共和国は、西太平洋にあたるミクロネシアの島々の集まり。
その中には、ペリリュー島の戦いで有名なペリリュー島もある。パラオが世界一親日の国、と言われる理由は、戦前の日本統治下の印象が良いから。
日本政府はパラオのインフラ整備、医療整備、教育の普及に力を注ぎ、その結果パラオは発展した。
現在でも日本語が使えるパラオ。日本語由来の単語も残っている。
ペリリュー島の戦いの中川州男大佐は尊敬されている。
ペリリュー島の戦いでは、日本軍人の機転で、島民に一人の死者も出さなかったことが語り継がれている。
パラオというと小さな島国であり、一見日本とは関わりがあるとは知らない方も多いかもしれません。
しかし、ペリリュー島の戦いといい、親日感情の強さといい、日本との深い絆は健在です。
英語の勉強や観光に、パラオを訪ねてみるのも素敵ですね。
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました☆
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