原爆の恐怖と悲劇を描く戦争文学―井伏鱒二の『黒い雨』①
いつも私の記事をご覧くださり、ありがとうございます🌸
定期購読マガジン「仲川光🌸文学入門①近代文学」、8月度第1回を公開させていただきます。
この記事がいいな!と思った方、続きが読みたいと思った方は、ぜひ定期購読マガジンの方をご検討くださいね。↓↓
8月第1作目には、井伏鱒二の小説、『黒い雨』を取り上げます。
近代文学じゃなくて現代文学じゃない?と思った方!
まあ、良いではないですか🤣🌸笑
『黒い雨』は、1965年~1966年に書かれた井伏鱒二の作品で、原爆の悲惨さを描いた戦後文学の傑作と言われています。
『黒い雨』――原爆の恐怖と悲劇を描く戦争文学
井伏鱒二(1898~1993)
【書き出し】
この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。
数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持ちであった。
二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。
【名言】
【あらすじ】(前編)
広島県小畠村の閑間重松(しげましげまつ)は、姪の矢須子(やすこ)の縁談について、心を悩ませていた。
村では、矢須子が原爆病患者だとい噂を立てられ、さらに重松・シゲ子夫妻がそれを隠していると言われている。矢須子の縁談話が持ち上がっても、この噂のために断られてしまうのである。
噂では、矢須子が広島市内で勤労奉仕をしていたときに被曝したと言われているが、それは事実無根である。
矢須子は市内で重松夫妻と同居していたが、市外にある重松の勤め先の工場に入社していたし、原爆投下時は、疎開荷物を選ぶために爆心地から十キロ以上離れた古江町にいた。
重松は爆心地から二キロの横川駅で被曝したが、矢須子とシゲ子とは、その後、広島市内で合流して避難したのだ。
実際、重松は医師からも軽症の原爆病だと診断されたが、矢須子は異常なしと診断されている。
終戦から四年十カ月がたったころ、矢須子に仲人を介して、山野村の旧家の若主人との、もったいないような縁談話が持ち上がった。
重松は今度こそ縁談をとりまとめようと、矢須子の健康診断証明書を仲人に郵送した。
しかし、それがかえって不信を招いたのか、仲人が「原爆投下時の広島での矢須子との足取りを知りたい」と言ってきた。
矢須子はシゲ子と納戸で泣いていたが、自分の日記を無言のまま重松に手渡した。
重松は日記を清書して、仲人に送ることにした。
「八月六日――。
朝五時半、能島さんのトラックが来て、疎開荷物を運ぶ。
古江町で閃光と轟音。
広島市街に噴火のような黒煙。
ここから先は
¥ 250
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?