【天才】 青山二郎氏
小代焼中平窯の西川です(^^)
今回は文芸評論家・小林秀雄氏に
「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ。」
と言わしめた稀代の目利き・青山二郎氏についてご紹介します。
本記事は、青山氏と関係のあった陶芸関係者と青山氏との関りから、天才・青山二郎氏の美意識を知ろうとする試みです。
北大路魯山人氏と
青山氏は魯山人氏の料理や食器を高く評価していました。
そして、それと同時に魯山人氏の常識外れの毒舌ぶりに対しても、青山氏は言葉を残されています。
魯山人氏は料理を作り、その料理のための食器も自身で作りました。
以下は青山氏が魯山人氏を称えた文章です。
「だから料理の事は、魯山人に文句の附けやうが先ずない。
~中略~
それが本音で、頭の上がらない決定的なことを私に教へたのは小林と、この料理の魯山人である。」
「料理と瀬戸物は離すことが出来ないが、
それを一人で握つてゐる所が魯山人の独壇場である。」
しかし、そのあまりの口の悪さや世間から嫌われている様子を嘆く文章も残しています。
「……口さえ利かなかったらトウに彼は無形文化財(※いわゆる人間国宝)になつてゐたらう。」
「ところが、魯山人のことを書いたと言ふだけで、私は信用を失ふ。」
柳宗悦氏と
青山氏は、知られざる民芸運動の初期メンバーでした。
実は、
大正15年『日本民藝美術館設立趣意書』の表紙を飾った伊万里湯呑みは、
当時 青山氏が所有していた器です。
柳氏から李朝陶磁器の買い付けを一任され、青山氏が買い付けた品々で展覧会が開催されました。
青山氏の李朝陶磁器への審美眼は凄まじく、
「朝鮮第一流のものは焼物、百万中に一つなり。」
と言う言葉から、青山氏が厳しく李朝陶磁器を吟味し、買い付けた様子が伺えます。
その展覧会の案内状で柳氏は
と青山氏の審美眼を絶賛していました。
柳氏が初期茶人の審美眼を褒め称えることはよくありましたが、
同時代を生きた美術評論家の審美眼を絶賛するということは少なく、
青山氏は柳氏の目から見てもまったく稀有な人物であったと言えるでしょう。
河井寛次郎氏命名の『分け柳』(※まるで柳氏のような美意識を持っているという意味)というあだ名まであったそうです。
しかし、次第に青山氏は柳氏から距離をとります。
白洲信哉氏によると、
下手物(民藝品)のみを美の本道とする柳氏の狭苦しい美意識に矛盾を感じ、『民藝教』の教祖的存在となった柳氏から離れたのだろうと推察されていました。
加藤唐九郎氏と
青山氏は陶芸家・唐九郎氏とその作品を高く評価していました。
青山氏の目からは、
茶陶の唐九郎・食器の魯山人
と捉えていらっしゃったようにお見受けします。
作品の良さもさることながら、唐九郎氏は陶芸家としては常識破りなほど、知的で博識な人物でした。
おそらく、現代でも多くの方がその野蛮人のような見た目に騙されている事でしょう。
一人称は「わし」語尾は「~じゃ」という、一見あか抜けない田舎のお爺さんのようですが、急に「~自我に目覚めたデカルト以降の近代哲学というものは~」などと語りだし、唐九郎氏の文章を読んだ方はその知識の広さに度肝を抜かれます。
そして青山氏は、まさにその博学さや饒舌さに危機感を覚えていたようです。
口が過ぎたために多くの反感を買った、魯山人氏・柳氏の二の舞になってほしくなかったのでしょう。
「唐九郎の焼物は、今後まだまだ良くなる一方だろう。
だがそれと同時に、彼の饒舌も輪をかけて、益々世間を煙に捲く積りだろうが、
どつこいこれが魯山人・柳宗悦と同じ結果を招きはしまいかと言ふことを、先ず恐れる。」
因みに青山氏の骨壺は唐九郎氏が制作し、青山氏はその中で眠りについています。
この骨壺の中で、青山氏は今何を思うのでしょうか。
2024年6月25日(火) 西川智成