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人から見えるのはちょっとだけ【エッセイ】

あなたのnote読みます』この企画も始まってはや1カ月半が経過する。

「あなたが書いた文章をnoteにアップしてください。DMをくださいましたら読みに伺います。」

たったこれだけの企画なんだけどこれまでにとてもたくさんの応募があった。たぶん100通近くのお手紙をいただいた。

当初はそれほど深く踏み込むつもりはなくて、やったとしてもちょっとした文章添削をネット上で行なう。その程度のつもりだった。気になる所を数点ほどピックアップして、DMでラリーする。そして「あなたのnoteを読みましたよ」とTwitter上に放流する。

それだけのはずだった。でも当初の予定通り企画が進んだケースはあまりなくて、実際に私のタイムラインに流されたやり取りはその中のほんの一部となっている。傍目からは全く見えない。ブラックボックス内での交流がほとんど。だから読者の皆様から見えているのは本当にちょっとだけ、それは氷山の一角程度のものなのである。

どうやら私の企画に応募してくれた人のほとんどは文章の添削を望んでいないようなのだ。いや、依頼の上では添削希望で来るのだが、読み進めてみるとそれは応募者の本心ではないということが分かる。そういったケースが多い。

私はその度にお手紙を返している。「この応募は私信として取り扱います。だからTwitterにも放流しませんし、私の胸に留めておきます。安心してください。あなたのnote読みましたよ。」これでその人とのやり取りは終焉を迎える。

こうして傍目からは何も見えてないと思われるが、応募者と私の間でそうした言葉のやり取りをした記憶だけが降り積もる。

周りからはどう見えているんだろうかとふと立ち止まる時がある。Twitterでははしゃいでいる事も多いから、もしかしたら華やかに見えているかもしれない。「いつも仲さんの周りには人が居て賑やかですね。」一角だけ見るとそう思われているかもしれない。

でも本当の事をいうとチヤホヤされているわけでもなんでもない。誰かの声にほんの一時だけ耳を傾けている。それがただひたすら続いているだけなのだ。割合で言うと悲しい声が七割で、どうでもいい他愛もない笑い話が二割、残りの一割が嬉しい話、そこでようやくやっと「良かったね」と応募者に声を掛けられる。

読むことは実は体力と気力が必要な仕事だけど、その「良かったね」の為に続けている。

『あなたのnote読みます』

この企画はそういう企画です。


#エッセイ #とは #あなたのnote読みます  

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