羨むとは、あまりきれいな感情ではないらしい。
麻布競馬場という方の小説が人気らしい。
自分の羨ましいとか嫉妬の気持ちを小説にしているとのこと。
そして、インタビューの中で、麻布競馬場さんはその羨ましいとか嫉妬というのは、あまりきれいな感情ではない、と言っておられた。
7年くらい前の話になるが、ある人にこうやって活躍されているのを羨ましいなって思います。
と言ったら、相手の顔が険しくなったことがあった。
私の中では羨ましいという言葉は、
「憧れます。私も研鑽を続けてあなたのようになれたらなって思います。」
というリスペクトの意味合いだったのだけれども、
世の中の羨ましいの言葉の意味が違うものだと知った瞬間だった。
決して、その人を非難したいわけではない。
今も以前もその人を素敵だと思っている気持ちには変わりない。
ただ、羨ましいの意味を調べると、
「人の能力や状態をみて、自分もそうありたいと願うさま。また、他人をねたましく思うさま。」
ねたましいという意味合いも入っているらしいので、羨ましいがきれいな感情ではないと言われるのはそこなんだろうな。
ねたましいは相手に対する負の感情が見え隠れするのがいただけないなと。
あいつだけずるいとか、そういった感じ。
前半部分の説明から受ける印象は悪いものじゃないとおもうんだけど。
結局は羨ましいなと思うだけなら、自分の心の中でいつしかねたましいに変換されてしまうかもしれない。
だけど、羨ましいならば自分もがんばればいいじゃない?と目標にした瞬間にねたましい気持ちなんて抱いていられる余裕はないはずだから、人は行動してなんぼやなって思う。
そういう意味では、ねたましいも羨ましいも、自分の望みを知るきっかけになる。ものは使いようだ。
実はここ数年、羨ましいと思うことが全くなくなった。
生き方を変えたことが大きく関係している。
生き方を変えたというか、自分を苦しめている不必要な思い込みに気がつくことで生き方が勝手に変わってしまったのだ。
その思い込みは私は持っていることで苦しかったのだけれども、世間一般的には持っていても普通だし、むしろいいことのように思われていることだったりするので、私の中でその思い込みから派生していた羨ましいという気持ちをやはり悪者にするつもりはない。
羨ましいという気持ちを持たなくなった理由は、今の私には夢も希望も目標も何もないから。
私の中では羨ましいと目標はそれくらい密接に関係している。もうイコールでつなげてしまおう。羨ましい=夢、希望、目標
あ、今分かった。私の思う羨ましい気持ちは羨望なんだな。羨望のまなざしでその人を見たのだ。だから目標なのだ。
ここ数年の私は、いい意味での諦めを標榜していて、目の前に来たやるべきことをせっせとやる。淡々とせっせと毎日暮らしています。
ん・・・ちょっと嘘。淡々という状態にはなり切れない部分が、かなりありますが。
諦めなので、夢や希望は基本的にないのです。
夢や希望を見つけなくても、なんだかふらーっと目の前にやるべきことがくるので、それを淡々としていたら勝手にどこかに流れ着いているみたいな感じです。
前までは夢を自分で決めて、ゴール地点に旗を立ててそれをめがけてやっていく感じで、今は自分がいらないことをしない限りどこかにある然るべき場所に行けるよね?的な感じです。
最近、「置かれた場所で咲きなさい」という本のタイトルをよく思い出すのです。そして読んだこともないその本の言わんとするところが何となく分かる(気になっている)今日この頃です。
確か、ノートルダム清心女子大学のシスター先生が書かれた本だったはず。ここまで書いたからには、読まなきゃな(笑)