レコード芸術のない世界で
クラシック音楽の専門雑誌「レコード芸術」が、今月20日発売の2023年7月号をもって休刊となる。いよいよ最終号の書影も発表され、お別れへのカウントダウンが始まってしまった。
残念。さみしい。そうとしか言えない。ずっと愛読してきた雑誌がなくなってしまうのだから。
心ならずも、レコ芸断ちをせねばならない。
禁煙ならば、成功するまで何度でも失敗できる。禁断のブツはいつでもどこかで売られているから、金さえ出せば、心と身体が欲する煙とニコチンにありつける。私自身、もう吸わないと心に決めて我慢していたタバコに手を出し、敗北感と罪悪感を抱えながら、良くも悪くも生きているという強烈な実感を味わう、そんな経験を幾度も繰り返した。
しかし、今度は事情が違う。禁レコ芸は私の意志ではないし、どこへ行っても、どれだけ金を出しても、レコ芸の最新号はもう手に入らない。未知の音盤情報がぎっしり詰まった特集や月評、海外盤Review、新譜紹介も、一流音楽家のナマの声が聞けるインタビューも、個性豊かな執筆陣による読み応えある連載も、読みたくても読めないのだ。
レコ芸には、私のような視野の狭い素人のアンテナには引っかからない、多種多様な音盤への扉がいくつも用意されていた。数々の評論や記事に好奇心をそそられてそれを開け、まったく知らなかった音の景色に心動かされ、胸打たれ、魂を震わす。この雑誌を通して、そんな体験をどれほど重ねてきただろうか。
もちろん、自分が聴いた音盤に対して、私とまったく違う観点から褒められたり、貶されたりすることもままあった。中にはまったく納得のいかない評に出会うことだってあったし、推薦盤を聴いてピンとこなかったことも少なくない。
けれど、それでいいのだ。クラシック音楽ファンで、音盤中毒、活字中毒である私にとって、レコ芸は私の欠かせない居場所だった。日常生活の一部だった。読むのがとにかく楽しかったから。そうでなければ、47年も読み続けたりなんてしない。
そんなかけがえのない場が失われようとしているいま、私は「レコ芸のない世界」に想像をめぐらせている。思考訓練として。
その世界の表層は、今とさほど変わらないだろう。新譜情報は、国内外のCDショップやディストリビューターが発信してくれる。レコ芸執筆者諸氏も、様々な場で解説・評論を書き、メディアやSNSを通じて発表してくれるだろうし、アーティストのインタビューもどこかで見聞きできる。
それに毎月の固定費は減るし、嵩張る雑誌にスペースをとられることもなくなる。聴きたいという欲求をそそる刺激的な情報も少なくなるので、「余計な」買い物をしなくて済み、自分が聴きたい音盤だけ買えば良くなる。
「レコ芸がなくなったって悪いことなんてないよ」と右の耳で天使が囁く。一方、左の耳では「そんな世界はお前にとって幸せか?」と悪魔が問いかけてくる。
やはり、レコ芸のない世界はさみしい。
一度では消化しきれない量の音楽評論、批評をちびちびと読み、あれこれ思いを巡らせながら、買ったばかりの、あるいはお気に入りの音盤をゆっくり聴く。ときには自分のテリトリー外の音盤に興味を惹かれ、次に何を聴こうかと計画を立てる。CDを買おうか迷っているとき、レコ芸で読んだ評論に背中を押してもらう。善良な小市民のささやかな楽しみがなくなってしまう。
世の中の大多数が、そんなふうにレコ芸を惜しんだりはしないだろうことは分かっている。でも、レコ芸が担っていた音楽評論の場を求める声は、私のようなごく少数の読者からだけでなく、作り手の側からも出てくるのではないだろうかと思う。
自分たちが追い求める理想の音楽を、日頃磨いてきた技術と、内なる知情意のすべてを駆使して作りあげ、繰り返し聴かれることも意識して手間暇かけて記録として刻んだ音盤。それが誰によって、どのような視点や文体で論じられるにせよ、専門知に裏づけられた審美眼の持ち主によって認められることの意味は、無視できないほどに大きいはずだ。かつてほどではないにせよ、音盤に対して与えられる「レコ芸特薦盤」「レコードアカデミー賞受賞」のようなお墨付きは、音楽家やレコード会社にとっての重要なステータスであり、宣伝材料であり、大いなる励みだったことだろう。それが証拠に、レコ芸の発売日前後には、この雑誌にとりあげられた、高い評価を受けたと、嬉々として報告する音楽家のSNSコメントが至るところで見られるではないか。もちろん、不当な評価に憤慨することもあるだろうが、気づかれない、無視されるより何倍もいいはずだ。
長年、クラシック音楽業界のど真ん中にあった専門誌の不在は、読者にとっても、音楽業界全体にとっても、痛手であるはずだ。
では、レコ芸のない世界の先には、何が待っているのだろうか。
普通に考えて、よほど強力なスポンサーが現れない限り、そのままのかたちでの復活や存続はあり得ないだろう。何しろレコ芸は三重苦を背負った雑誌である。購買層は圧倒的マイノリティであるクラシック音楽ファンで、扱う対象はフィジカル音盤(しかも月評は国内盤CDのみ対象)で、おまけに紙の雑誌なのだ。そこへ来て、広告収入の激減と物価高が追い打ちをかけ、今回の事態に至ったと聞く。今と同じ形態で経営が成り立つなら、もう少し持ちこたえただろう。
ならば、きっと私たちからは想像もつかないような新しいメディア、ビジネスモデルを、それを推進するパワフルな人材と、強力なスポンサーの手で創出できたとき、私たちはようやく「レコ芸のない世界」から、「〇〇のある新世界」へと移行することができるのかもしれない。
その〇〇とは一体何なのだろうか。
私には分からない。イメージできない。分かるくらいなら、今の仕事を投げうってでもそちらへ行きたいくらいだ。だが、私のような凡人には到底叶わぬ夢である。
レコ芸存続を訴えたネット署名の発起人である沼野雄司氏は、この運動はまだ終わりではないと言っておられる。私は氏の力強い意志表明に希望を持っている。現編集者を含めた関係者諸氏も、事態打開のために考え、行動されているに違いない。
私にできることと言えば、「記録された音楽への批評・評論を体系的にまとめた新しい定期刊行物」が、今の時代にマッチしたかたちで生まれるのを待ち望むことだけだ。私たち聴き手の好奇心と、音楽への愛情を掻き立ててくれるメディアの出現を願い、その萌芽となるものに、たとえ何の足しにもならなくとも、自分でできる限りのささやかな支援、応援をしていきたいと思っている。
これまで47年間にわたって愛読してきたレコード芸術には、一旦、心からの感謝を表したい。どうもありがとうございました。
また近いうちに、もしかしたら別のかたちで、レコ芸に再会できることを心の底から願う。いま、レコ芸がなくなろうとしている世界の片隅で、河合隼雄氏が生前好んで言っていた言葉のとおり、「のぞみはないが、ひかりはある」と信じている。
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