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チベット仏教の教義を継ぐ阿含宗

このnoteでは、阿含宗がチベット仏教界から引き継いだ教学面の内容について書きました。

チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があるという教義教学があり、阿含宗はこの教義教学を引き継ぎました。
この教義教学は、おそらく既存の日本仏教には伝わっていない内容です。

この三つの方法のうち、特に重要なのは「思念による王者の相承」というもので、これは修行者側の意思は関係なく、仏陀側の意思で仏陀側が認定した修行者に対して、仏陀が強烈な霊的波動を叩きつけ、その修行者の人間存在を魂レベルでクラスチェンジ(ゲーマー用語)させてしまう、というものです。
そして、これは現在、阿含宗の実際の修行の中に組み込まれている阿含仏教の核となる教義のひとつでもあります。

このことについての説明を、このnoteに書きました。

結論だけを知りたい方は以上で終了です。
各々の事柄に、もうちょっと読んでみてもいいかな?という方がいらっしゃいましたら、続きを読んでみてください。

阿含宗開祖、「思念による王者の相承」を知る

1983年(昭和58年)8月、阿含宗開祖はチベット仏教ニンマ派から法脈を継ぐ。
1988年(昭和63年)10月、同じく チベット仏教ニンマ派から阿闍梨の位を授与される。

阿含宗公式サイトより

この経緯の何処かで日本仏教には伝わっていないチベット仏教ニンマ派の教義が阿含宗に伝えられたようです。

チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説いている。
1.思念による王者の相承
2.象徴による持明者の相承
3.耳を通した言葉による人の相承
である。
霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が恒常に法を説いている。
1の「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言語や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

輪廻転生瞑想法3 桐山靖雄 P.75

「思念による王者の相承」は、修行の最終段階に近づいたと仏陀に認定された時、ガツンと強烈な霊的波動が仏陀から発せられ、自分自身の魂の書き換え、ゲーム的に言えば人間存在レベルのクラスチェンジが行われることです。2と3は阿含宗開祖の書籍を参照ください。

この教義は中国経由の日本の仏教には伝わっていない、と思われます。

「思念による王者の相承」と入我我入の相違点

密教の修行方法に詳しい方は、これは真言密教で言う入我我入のことでは?と思う方がいるかもしれません。
そこに気付くというのは、テクニカルな部分の修行法について、相当理解している方だなあと思います。
しかしながら、両者は似ているようでいて全く違います。

「思念による王者の相承」と入我我入の決定的な相違点、それは

・入我我入は、修行者が修行者の意思で行う修行

・「思念による王者の相承」は、仏陀側の意思で、仏陀側が修行者に対して与えるトドメの一撃

それを行使する主語、主格が違います。

ただ実際には本物の仏陀の霊力・成仏力を発する本尊と入我我入をするということは「思念による王者の相承」の簡易版を行っていることと等しいです。阿含宗の修行のテクニカル面での核心は、毎日コツコツと阿含宗が成仏力と呼ぶ特殊な霊波を発する御本尊様と入我我入し、深層意識・潜在意識・魂の奥底に御本尊様の霊波を送り込み、それによって自分自身の魂そのものを霊的に浄化して書き換え、結果として人間としての悪因悪業を少しずつ断ち切っていく、というものです。ですから魂の浄化、魂の書き換え作業を地道にコツコツ行っていると、その修行者の様子を仏陀が認識しているので、実は簡易版の思念の注入、「言語や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達」を仏陀が修行者に対して行っているのです。ただし入我我入は、あくまでも「思念による王者の相承」を受ける資格を得るための練行、修行、魂の受け皿づくりという位置づけです。(ちなみに、このようなプロセス、メカニズムを理解した上で毎日の修行(勤行というお経とかご真言を唱える修行)をしている阿含宗会員信徒は、少なくともボクの周辺には誰もいないです。)

こういった修行と、他のいろいろな修行を積み重ねていき、霊性開顕という特殊な経験をして、さらにその先に進んでいくと、どこかの時点でガツンと強烈な霊波を浴びる。それが本当の「思念による王者の相承」です。最終決断は修行者側の意思ではなく、仏陀側の意思によって行われます
御本尊の向こう側に諸仏諸尊が存在して、自分のことを見ているという認識が必要で、その認識の上での修行となります。

経緯がチベット仏教界に伝わる

阿含宗開祖は、1980年(昭和55年)11月、インドのサヘート・マヘート(祇園精舎)のミラクルの池と呼ばれるところで、仏陀から直接白銀のバイブレーションを受けました。後年になって、それがチベット仏教ニンマ派でいうところの「思念による王者の相承」であると阿含宗開祖は知りました。この頃は、このような霊的なバイブレーションを受けるという修行段階が存在することを阿含宗開祖は認識していませんでした。というか、そんなプロセスが存在することが中国から伝わっていないのだから日本の仏教者は誰も知らないです。

そして、この1980年(昭和55年)11月のインドでの出来事を経て帰国してすぐに、阿含宗開祖は初めてダライ・ラマ法王と会談しています。この辺りの経緯は下記の書籍に詳しく書かれています。

書籍等には書かれていないので、ここからは個人的な推測となります。
当然、この白銀のバイブレーションを受けたことは、初会談したダライ・ラマ法王にお話したでしょう。それを聞けばダライ・ラマ法王はチベット仏教に伝わる「思念による王者の相承」が起きたことを理解したでしょう。教義として伝わってはいるものの、おそらく伝説扱いされていたのではないかと思われる事が実際に起きたのですから、チベット仏教界の上層部が衝撃を受けたことは間違いないはずです。そして高い霊能力があるチベット仏教界の大阿闍梨が阿含宗開祖を霊視する、諸仏諸尊にお伺いを立てる、その結果を得てさらに衝撃を受ける。そしてその大きな衝撃が相次ぐチベット仏教界による阿含宗開祖への法脈の相承へとつながっていったのだろうとボクは推測しています。
それが、このnoteに書いた事柄へつながっていきます。

「思念による王者の相承」を受けられる場所

現在の阿含宗では「思念による王者の相承」によって発せられる霊波を「白銀の霊的バイブレーション」と呼んでいます。
2022年現在、この白銀のバイブレーションを受けられる場所とされているのは、京都の阿含宗総本山のブータン堂と、台湾の阿含宗台湾本山のブータン堂です。他にも滝行のできる施設の何箇所かで白銀のバイブレーションを受けられる、とされていますし、2022年現在、この場所を増やそうという活動を阿含宗は行っています。京都総本山のブータン堂は、ボクは行ったことがない。たぶん入れない。台湾本山のブータン堂は、たぶん参拝可能。滝行の施設は会員信徒用施設なので、一般の方は入れません。
ただし、仮にこれらの施設に参拝したとしても、たぶん、何も起きません。

最後に

このnoteを読んで「選ばれた存在である俺様は「思念による王者の相承」を受けらるぜ!」と思ったあなた、それは残念ながら勘違いです。

今の時点で「思念による王者の相承」を受ける資格を本当に持ち合わせているならば、得体の知れない力によって動かされ、自分の意志とは関係なく呼び出しを受けて、すでに阿含宗と縁があるはずです。それが無いのであれば、現時点で見込みはないです。あきらめて修行を一からやり直しましょう。

ボクが入我我入との違いの箇所で書いたように、修行のプロセス、メカニズムを理解した上で、20年、30年、あるいはそれ以上の長い年月をかけて、地道にコツコツやってきて、それ以外に色々な修行、積徳行をして、霊性開顕という特殊な経験をして、さらにその先に進んでいくと、認められる可能性が出てきます。

山にこもって、一人で修行しているような人には、永遠に、その日は来ないです。
一人山奥で厳しい修行したから、あるいは瞑想テクニックを磨いたから資格を得るのではないのです。経典の字句解釈や専門用語の定義付けに熱中してアビダルマ論者化して些末な知識を誇っているだけの人には、チャンスは微塵もないです。
本物の諸仏諸尊の力を借りて、仏法に基づいた観点で、どれだけ多くの人を助けたのか?どれだけ多くの人を幸せな人生にすることに寄与できたのか?が最も大きなポイントになります。

資格があるかどうかを決めるのは、一人でも多くの人を救いたいと願っている仏陀です。だから、瞑想テクニックだけで誰も救ってない山奥の修行者や、修行すらしていない知識だけの人は、仏陀の眼中にないということを理解してほしい。

「俺って霊感あるんだよね~、地縛霊とか見えるんだよね~、だから、この「思念による王者の相承」ってやつ、俺なら間違いなく受けられるんじゃね?」
そういうわけで、そんなあなたは、スタートラインにすら立たせてもらえていないです。

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