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仏法僧の源流 阿含経・三供養品 聖衆①

現在の漢字文化圏における仏教において仏法僧という概念があります。
この仏法僧の源流は阿含経あごんぎょう三供養品さんくようぼんというお経にあります。

下記は三供養品さんくようぼんと仏法僧の対比です。

①仏:如来のみもとにおいて功徳をえる
②法:正法において功徳をえる
③僧:聖衆において功徳をえる

三供養品では、この条件を満たした上で修行をしっかりやると、普通の人(凡夫)の境界を脱して四沙門果の段階まで到達できると説明しています。このnoteは「聖衆」を軸にした三供養品の説明を行います。


「聖衆」

於聖衆而種功徳
聖衆において功徳をえる

阿含経あごんぎょう 三供養品さんくようぼん

後世、「聖衆」が「僧」に置き換えられた

仏法僧の「僧」の源流に着目すると、お釈迦様は「聖衆」という単語を使用しており、「僧・僧伽」の意味ではないらしいことが漢訳の阿含経からわかります。

「衆」と言うからには在家の修行者も対象者に含みます。
ボクは学者ではないため三供養品の漢訳と原典(パーリ語や梵語の経典)との比較をしたことがありませんが、大昔の仏典翻訳者が漢訳で「聖衆」と翻訳しているからには必ず理由があって、翻訳当時のオリジナル言語の単語には「僧・僧伽」という翻訳では不十分であり、在家の修行者を含むニュアンスを持つ「聖衆」という訳語を狙って使用しているはずです。

それなのに、のちの世の中では「聖衆」が「僧」に変化しました。

いつ、誰が解釈変更したのかボクにはわかりませんが、解釈変更をした大昔の僧侶たちは霊能力を持たなかったのであろうことは想像できます。
なぜならば、修行の結果として霊感を得てしまったボクの立場から言わせてもらうと、霊感があると①如来、②正法、③聖衆は全てが必要で、且つ、全てがリンクしていることが、非常によくわかるからです。
このことを体感で理解しているならば、「聖衆」を「僧」に置き換えるという発想は出てこないと、ボクは断言できます。

霊感があると三供養品がよく分かる

①如来、②正法、③聖衆はリンクした関係にあります。
このリンクは法要をするときに、よくわかります。

③聖衆(在家出家を問わない修行者たち)が皆で心を合わせて祈ることによって
①如来が祈りを聞き届けて、やる気を出し
②正法、阿含宗用語で言うところの成仏力・解脱力という霊的エネルギーが祈りの現場に降り注ぎます。

①如来が発する②正法の霊力は、人々やその土地の悪因悪業・カルマを消滅させる「力」があります。

でも、この②正法の霊力は 、縁もゆかりも無いところに自発的に降りてくることはできません。
③聖衆の祈りの活動が起点となり、この縁を辿って初めて現実世界に降りてくることができのです。
神仏の力も、縁に依ってはじめて、この世界に生じることが可能となるのです。これは「縁起」と呼ぶ仏教の基本法則です。

縁起論等の仏教の本当の基礎教学を理解したうえで、さらに神仏の霊力を知覚できる霊能力を有していると、三供養品に書かれている①如来、②正法、③聖衆は単純に並べているのではなくて、リンクしていることを納得感を伴う体感で理解できるようになります。

書籍や過去のnoteへのリンク

阿含経三供養品についての阿含宗開祖の解説がある書籍はこちら

三供養品についての解説と同時に、「意生身」という、現代の我々が一般的に幽霊と思う存在をお釈迦様がはっきりと認めている経典が掲載されています。お釈迦様は霊魂を説かなかったという一部の人の説明は誤りです。それをこの書籍でご確認いただければ幸いです。

縁起論について。その辺の自称仏教者やスピ系の語る仏教の「空」の説明を読む時間があるなら、ボクの説明を読んでください


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