阿含経講義 雑阿含経・一切事経 実践編
はじめに
このnoteは、雑阿含経・一切事経の実践編を書きました。
1.自分が「信」を持つこと
2.神仏に自分に対して「信」を持ってもらうこと、そうなる自分になれるよう自己を変える努力をすること
3.周りの人を巻き込んで、一緒に成長していくこと
という概要説明の続きです。
このnoteは上記でカットした部分を中心にして現実に少し踏み込んで、読者に考える選択肢を提示することを目的にしてます。
学者さん系の説明は、仏教の教学を抽象的な言葉で小難しく書いているけれど、今、まさに現実で苦しみ悩んでいる人の問題解決の役に立つと言えるでしょうか?
ボクには役立つとは思えない。
仏教の教学の実運用については、やはり宗教の現場の観点から語る必要があると思う。
ということで、このnoteでは一切事経でお釈迦様が提示した修行の8項目のうち、聞・持・観・法次・法向の実運用についての考え方を述べていきます。
聞・持は一般常識
つまり、聞と持は、論語のこの一言で説明が終わります
今日はいい話を聞いたなあ!で終わってしまい、帰宅してお風呂に入ることには全部忘れてる。
それじゃダメだよ!
以上、終了。
もう、これ以上は解説のしようがない。
そして、今度は、この学んだ事を、自分や自分の家族に当てはめて深く考えてみましょう
観:辛いけれど自分の現実と向き合って考えてみること
観
縁起の法
まず前提条件として、縁起の法という仏教の基本原則、基本法則について理解することが必要です。
この世の中は、縁によって生じる、縁が無ければ生じない
因縁果報といって、まず原因となる因があって、その因に紐づく縁が発生して、結果が生じ、その影響(報)が残る。
因果ではない。因と果の間には「縁」がある。これが重要。
不倫をしてしまう人の例で縁起論を考える
この世の中には、好きになって関係を持った人が、なぜか妻子持ちばかりという人が本当にいる。
相手に妻子がいるとわかっていて、そうなる場合もあれば、相手の男性に騙されて関係を持ってから事実を知る場合もある。その時の事情は様々であろうけれど、とにかく、なぜか妻子持ちの相手ばかりに惹かれてしまう。
別にこれらの人はバカではないし、下半身で思考をしているわけではないのだが、なぜか、そうなってしまう。多くの場合、望んでいないのに出会ってしまい、どうして自分はこういう巡り合せなのかと思い悩む。
今の世の中、結婚相手をみつける、恋人に出会うということ自体が、多くの人には極めて困難な時代である。にもかかわらず、本人は狙ったわけではないのに、異常な高確率で、ピンポイントに妻子持ちの相手と運命の出会いをしてしまう。
こういう人が、この世の中に本当に実在する。
人間は何らかのカルマを持って生まれてくるが、そのカルマという不可視のエネルギーが男女関係のトラブルで苦しみ悩むという属性、指向性を強く持っている場合、そのひとつの現れとして、自分が不倫をしたり、あるいは配偶者に不倫をされて苦しみ悩むという人生になる。
事例として、この現実を仏法、縁起の法、因縁果報の法則に当てはめて考えます。
果:今、不倫の関係にあって、たぶん、まだ不倫相手の奥さんにはバレてないと思っているのだが、
報:いつかバレてしまったら大変なことになるのはわかってる。
でも別れられない。
そもそも、どうして、今、こういう状況になっているかというと、
縁:あの日、あの時、あの場所で、あの人と出会ってしまったから
運命の出会いなのだから、もう、仕方ない。理屈じゃない。
どうして出会ってしまったのかを縁起論から考えると、
因:不倫関係を持ってしまう運命の星を自分が持っているから
となる。
つまり、こういう図式なのだと認めることから始まる。
因:不倫をしてしまうという運命の星を持った男女が
縁:自分の意思とは関係なく出会ってしまい
果:今、まさに不倫の関係になり、別れることができない
報:ある日、色々表沙汰になって人生が崩壊してしまう
・因として、不倫関係に陥るという運命の星を自分が持っているという厳しい現実を直視すること
・その因から生じる「縁」によって運命の出会いをしてしまったということ
※一般的に配偶者持ちの人と運命の出会いをすることは無いです!
・果として、今の危機的な状況にあり
・報として、このままでは自分の人生は破滅する可能性がとても高い
このように、自分の現状を縁起の法という教学と突き合わせて、自分が非常に悪い運命の星を持っていることを認識することが絶対に必要です。
そして、この現状を認識することは非常に辛い作業です。
そんな訳のわからない話、自分は絶対に認められないし、認めるつもりは無い!という人はここで終了です。
また、この説明が「授持した教法の深い意味をよく観察し工夫すること」の実践であることを理解できない人も、やっぱりここで終了です。
この厳しい現実を何とか飲み込んで、その上で、この問題を解決したい!と決意した人が次に進むことができます。
ちなみに、これを読んで、これってある意味、四念処法の瞑想の実践じゃね?と気づいた方は、相当レベルが高いです。
「法次」は仏道修行を実際に始めること
「観」で向き合った自分の現実を、どう解決していくか?
根本的、根源的な最終解決方法は、不幸の元凶である男女関係のトラブルを発生させる運命の星を消滅させることです。しかしながら仏道修行による悪因悪業の消滅というのは時間がかかるもので、実際には人生をかけて取り組む必要があるものです。
とはいっても、眼の前の問題を何とかしなければならない。
そこで何をするかというと、まず「縁」を変えます。
仏教は宗教なので、気合とか根性とか、これから気をつけますという精神論ではなくて(もちろん気をつけないとだめだよ!)、神仏の力を借りて苦境を乗り越え、運命を変えるということをします。
最初に「縁」を変える
本来の、こういう図式
因:不倫をしてしまうという運命の星を持った男女が
縁:自分の意思とは関係なく出会ってしまい
果:今、まさに不倫の関係になり、別れることができない
報:ある日、色々表沙汰になって人生が崩壊してしまう
これを、神仏の「縁」を変える加護を頂くことで、下記のように変える
因:不倫をしてしまうという運命の星を持った男女が
縁:神仏の加護を得た側は、問題を起こす相手と出会わなくなり
果:不倫をするという環境が生まれない
報:新しい人生の展開が見えてくる
すでに不倫の真っ最中の人の場合は、うまくいけば不倫相手に男性の奥さんにバレる前に何とか別れることができて、色々辛く厳しいことが続くかもしれないけれど、それでも最悪の結果を避けるということを目指す。そうこうしているうちに、気付けば、なぜか自分が惹かれてしまう妻子持ちの男性に出会わなくなるという「縁」に変わっているはずです。
これが基本であり、運命を変える修行のスタート地点です。
意志の力では抗いきれない、突き上げるような心がある
不倫相手と別れるかどうかを悩むなんて、そんなの自分の意思で何とかなるだろ、バカじゃねえの?と思う人もいるかもしれないけれど、自分の意志、理性ではどうにもならないから苦しんでいるわけです。自分の意思とは関係なく運命の出会いをしてしまったのだから、その人と別れるのは大変な困難、苦痛を伴うわけです。
そこで執着を捨てるんですよ!と簡単に言う人があるかもしれない。
だから、それができないから苦しみ悩んでいるのです。
理性では別れないといけないと、わかっちゃいるけど、別れられない。
そういう思いを持って苦しんでいる。
そこを理解してあげてほしい。
この別れられないという思いは、深層意識、潜在意識から来る突き上げ、本能、衝動、渇望であって、表面意識でいくら頑張っても抗うことはできない。そういう人間の心理学的な観点からも考えてあげないといけない。
そして人間の意思の力では変えられない状況だからこそ、人間の意思の力を超えた神仏の力で「縁」を変えて、現状を変えようというわけです。
こういう流れを理解した上で、自分の運命を変えるための修行を始める。
これを「法次」と言う。
「縁」を変える力を持った存在はどこにいるか?
なるほど、とりあえず、この流れは理解しました。
では「縁」を変えて、自分の運命を変えてくれるような力を持った神仏、パワースポットはどこにあるのでしょうか?
ということで、こちらの実例をお読みいただいて、考えていただければと思います。
「縁」が変わって未曾有の大災害でも命を落とさなかった、という話を数字で説明しています。
「法向」は、問題を解決した人の次なる修行
「法向」については、詳しく説明しません。
なぜならば「法次」に至るまでの問題が概ね解決し、新しいステージが見えてきた人が各々の状況に併せて行う修行だからです。
だから修行をしていない人が考えても意味がない。そもそも理解できるレベルに達していないから説明しても理解不能です。
「法向」の修行内容は、ある程度修行が進んだときに、今とは違う考え方を持つに至った新しい自分が考えることです。
その時に、これからの自分はどうすべきか、よく考えてください。
ずっと不倫の話を書いてきたので、この延長線で話をすれば、この人が、とある妻子持ちの男性に会った時、
「昔の自分なら絶対にこの人に惹かれて人生を踏み外していたはず。自分のことだからこそ、よくわかる。でも今の自分は、そのような思いは一欠片も生じない。ああ、自分の心の奥底がはっきりと様変わりしたのだなあ」
という実感、修行の成果を確信を持って宣言できるようになった時、「法向」に属する新しい修行が見えているか、すでに開始しているはずです。
最後は十六法
一切事経の重要な部分は、これらの修行を自分一人でするのではなく、八法を他人にも教えて、育てて、一緒に成長せよ、そうすれば 8x2=16 となるので、よって十六法と名付けるのである、という部分です。
これは、つまり、周囲の人を仏法によって救えということです。
ボクが学者さん系の仏教解説をしている人に言いたいのは、抽象的な言葉を羅列した仏教思想、仏教哲学なるもので人を救えますか?ということです。
このnoteの事例でいうところの、なぜか配偶者持ちの人と運命の出会いをして不倫関係に陥り苦しみ悩む人を、抽象的な言葉で救えますか?そもそも自分の意思とは全く関係なく出会ってしまう、その出来事の発生を抽象的な言葉の思想や哲学で回避できますか?
綺麗事ばかりの瞑想で不倫がやめられますか?
その瞑想をすれば、そもそも不幸な運命の出会いの発生を止められますか?
「思想・哲学・自己啓発なんだから、そんなことできませんよ」とか、「自分は学者・研究者であって人を救うなんてことは管轄外ですよ」というのであれば、それはその昔、長老部・上座部と呼ばれる人たちが、大衆部と呼ばれる人たちから、お前らの教えは小乗の教えだと罵詈雑言を浴びせられたのと同じように、あなた達も小乗だと言われても仕方がないでしょう。
そういう歴史を繰り返してはいけない。そうならないように何とか知恵を働かせて頑張ってほしいと思います。
如意輪観音になるつもりで
阿含宗では、まじめに修行に取り組む決意をした人は、真言宗の四度加行にもある如意輪法という密教の法の伝授を受けます。
如意輪法というのは、如意輪観音を勧請(お願いして来ていただくこと)する具体的な方法です。
多くの人は、この法の伝授を受けても本来の目的を理解できないまま、手順や所作、印を組むことや真言を覚えることに熱中するか、中にはこんなもの何も役に立たない、お金を出して受講して損した!と思う人もいる。
ボクは、お金を損したとまでは思わなかったけれど、こんなもの何の役に立つのか?ということを受講した高校生の時に強く思いました。
如意輪観音というのは、6本の腕にそれぞれ特殊な救済力を持ち、六道輪廻に落ちて苦しんでいる人々を救う、そういう意思を持ち、苦しむ人々に救済力を送り続ける存在として定義されています。
阿含宗では、なぜ最初に如意輪法を学ぶかというと(真言宗も同様に如意輪法から学ぶのだと思うのですが)、それは自分自身が如意輪観音と入我我入して自分自身の魂を書き換えて如意輪観音そのものとなり、人々を救済する意思と力を持った存在になる、そういう自分になれることを目指すという目的があるからです。
この精神を理解できるかどうかで、仏教修行者としてのあり方が全く変わる。つまり高校生当時のボクは、それを理解できずに全てスルーしてしまったわけです。
阿含経の説明をするのに如意輪観音とか如意輪法の事を書く予定は全くありませんでした。ところが一切事経の訴えるところの十六法の精神を書こうとしたら、仏教を学び実践するということは、自分自身が如意輪観音になることから始まるのだという阿含宗開祖の教えを思い出しました。
雑阿含経の一切事経も、密教の如意輪法も、目指すところの精神は同じなのです。
偉そうに阿含経の解説をするのだと鼻息荒く文章を書いているけれども、果たして自分は如意輪観音のような精神を持てているだろうか?
そういう自戒を持ちながら、まとめたいと思います。
雑阿含経・一切事経とは、八法を理解して実践しながら、自分自身が六道輪廻に落ちて苦しむ人々を救う存在である如意輪観音と同じ精神を持つことを意識しながら、周囲の人も巻き込んで一緒に進んで行きなさいということを伝える経典です。
さいごに
実際の書籍では、原文、書き下し文、阿含宗開祖の解説と三段に分かれて書かれています。経典の細かい内容が気になる方は、リンク先のブクログから各自お好きな書店のサイトに飛んでいただいてご購入いただければと思っております。
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