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他人は鏡…か?


この話の内容は、あくまで私個人が体験した段階の順序、感覚で語るので、読んでいる皆さんは
自分はどうだろう?』
自分の場合はこうかな?』
など、ご自身に当てはめて考えてみてください。



今日一番お伝えしたい点は

『他人は"完全なる鏡"という訳ではないから気を付けてくださいね。』

と、いうものです。

結構前の記事でも書いたように、精神性の成長が進むにつれ、【他者を介した自分を見る方法】も色々と変化するので、その辺をまとめる話を書いておきます。



まずはイメージから。

普段生活していて、鏡を使いますよね。しっかりと自分が映って自分のどこに不備があるのか、整えるべきか、くっきりハッキリ見えますよね。

夜、街中などを歩いていると、閉店したお店のショウウィンドウや、ガラス戸などにも、結構しっかり自分が映りますよね。鏡ほどではありませんが、せいぜい洋服が折れ曲がっていたり、帽子が歪んでいたりする程度ならしっかり見ることができます。

では、昼間のショウウィンドウやガラス戸ではどうでしょう?映った自分を確認するのはなかなか難しいのではないでしょうか。自分の姿を確認しようとしたら、ガラスの奥の物が透けて見えるので、鏡のような使い方はできませんよね。

こんな風に、自分を映す物はその見やすさに段階があります。また、ガラスだけでなく水に自分が映るけど歪んで見えたり、車の車体など、ツルッとした金属にもボヤァっと自分が映ったり、自分を映す物、その映し方は様々です。



私が子供の頃は、
『他人は鏡である。』
と、いう概念を全く知りませんでした。

そのため、
「アイツ嫌い!」
「アイツムカつく!」
「アイツウザい!」
などなど、嫌いな人間への文句をブー垂れ続けていました。

そういう頃は、他人が自分を映しているだなんて一切思わない、何なら
「他人は鏡なんだよ。」
と、教えられても
「そんな訳あるか?!」
と、全く信じられない程の心境でした。



ティーンエイジャーの後半~二十歳前後位だったか、
『あぁ、この人は私と同じだ。』
と、強く感じる体験を経て、
『他人が鏡なのは、本当かもしれない。』
と気に留めるようになりました。

気にし始めた頃は、
『あの人のここが嫌だ!私も直さないと…。』
『何なん、アイツ。私も気を付けよう…。』
と、いう風に、
『他人のフリ見て我がフリ直せ。』
が合言葉となって、私自身の身の振り方を反省したり、直したり、とにかく他人の言動がかなり自分の言動と同じように感じるものが多かったです。



それらを繰り返す内にどんどん
『これって…私も悪いの…か?』
『これは、直さないといけないのか?でもあの人にされるとムカつく!』
といった感じで、
『本当に自分が態度を改めればそれで良いのだろうか?』
と、迷いの生じる出来事と対峙する場面が増えていきました。

そうこうしている内に
『まって。私は○○が"悪いこと"ってジャッジしてたけど、別に○○は"悪いこと"じゃないのかもしれない!』
『私は△△を"やってはいけないことだ"と思い込んでいたけど、やってはいけないという訳でもないのかもしれない!』
と、いうような自分が抱えている観念を見付けられるようになったのです。

そこからしばらくは、私が持つ観念を炙り出す視点で鏡と対峙していました。



『そうか。ジャッジを手放すって、大事なんだな。』
こういうことが解り始めてから、
『まぁ、基本は宇宙は何でもありだからね。私が認められない宇宙だって存在してるわ!』
と、
[存在を認めること]
を覚えました。

めちゃくちゃ単純な例え話で表現するなら、私が
『魚の食べ方が下手な人は食べ物を粗末にしてることだと思うから、許せない!』
と、思っていたとしても、
『まぁでも、[魚の食べ方が汚いこと=食べ物を粗末にしてる]という世界観が一切ないパラレルワールドの住人なら、魚を綺麗に食べようって概念も無いのかもね。』
という感じで、
[魚の食べ方が下手]
という行為が許せなかったとしても、
[【魚の食べ方が下手な人】が存在している]
という状況を許せるようになったのです。

ここまでの心境になれると、子供の頃の他者に文句ばかり感じていたときの心境とは雲泥の差、本当に楽になりました。

『色んな世界が共存しているんだ。』
と解ると、いちいち腹を立てる意味の方が分からなくなる程でした。



それでも、私は他者へのイライラは無くなりません。イライラする度に、
『自分の中には、どんな思い込み、観念が残っているんだ?』
と、内観を繰り返させられます。

その内、
『あの人の行動の◇◇に腹が立つ、と、いうことは私は◇◇がダメだと思っているのか?違う。"あの人に"◇◇されるのが嫌だと感じるんだ。何故"あの人に"◇◇されるのが嫌なんだ?本当はあの人に◆◆して欲しいんだね。そうだ。私は◆◆を求めていたのか!?』
内観の内容が何とも複雑になっていきます。

この辺になると、半推理ゲーム感覚です。

イライラの元凶には、
『本当はしたいこと。』
『本当は欲しいこと。』
『本当は求めるもの。』
がしっかり眠っていました。

一般的には
イライラする=ネガティブ
と、いう印象が強いので、私は
『イライラしない人間にならなければいけない。』
と思い込んでいた面もあったのですが、この頃になると、その思い込みはちょっと違うのだと解りました。

イライラする=気付くべき心のお宝のヒント
のように、
『イライラをサインとして受け取って、方々心を探ることが大切なんだ!』
と、感じるようになったのです。

そんな風に、他者を見ることで、回り回って【自分が本当は望んでいる何か】が見えるようになります。

ここまでくると、鏡どころか、X線カメラで撮影した自分をチェックしている位、
[他者を鏡として見る]
とは、少し違う感覚になってきました。



本当に最近になると、
『この人、ムカつく!』
と、思ったときには、
「すみません、□□が不快に感じるので、止めていただくことはできませんか?」
と、自分の気持ちに素直に相手に伝えることが大事だと学ぶことがありました。

勿論、喧嘩腰で伝えるのではなくて、丁寧な言い方、言葉遣いを心掛ける必要はあるのですが、自分が不快に感じていることは自分で素直に不快だと受け止めることの重要性を知ったのです。

これも一般的には、
「我慢しましょう。」
「優しい人間になりましょう。」
「心の広い人間になりましょう。」
などと言われることの方が多いと思います。それによって、自分が
『何か嫌だな。』
と、感じても、
『下手に言い返してはいけない。』
という感覚が強い人は多いのではないでしょうか。

ですが、
[自分の素直な感覚、感情、気持ちを自分自身でしっかり受け止める]
ということが最も重要であり、且つ、その上で、
「□□が不快なので、止めていただけませんか?」
と、相手に、
[嫌だと感じた部分をピンポイントで提示、止めるお願いをする。]
までできるようになることも一部大事なようです。

※この段階だと、言い方や言葉遣い、表現方法、態度、伝え方……人それぞれに"お勉強"が重要になる課題も含まれている可能性も高いです。各々見極めは必要だと思います。

私個人は、昔から思ったことをハッキリ述べたり、喧嘩上等な性格でもあるので、そんな自分に対していつからか、
『もっと、優しくならないといけないよ。』
と、自重していた節もあって、不快感などを感じても
『"私が"我慢すれば良いんだ。』
の、ように、耐えないといけない感覚が染み付いていました。

ですが、言葉遣いや言い方さえ選べば指摘しても良いというか、
『自分の不快感、不快に感じるポイントは相手に伝えないと分からないよね。』
と、いう部分を理解したのです。

これも少し複雑な話なのですが、前にも例えたように、
「粗茶ですが…。」
と言ってお茶を出すのは、厳密に言えば失礼に当たる、けど、【自分の行いを謙遜する文句】として定着してもいますよね。そうして出されたお茶に対して、
「お粗末様でした!」
と返すのは非常に無礼に当たります。

が、しかし、
「粗茶ですが…。」
という"文句"を一切知らない人がその言葉を聞いた場合、文字通り返すべきかと考えて、
「お粗末様でした!」
と返してしまったかもしれないのです。

そういう場合は
「こういうときは、素直に「ごちそうさまでした。」と言わないと、お茶を出してくれた人は不快に感じますよ。」
と、伝えるまで、
「お粗末様でした!」
が[相手にとって不快な言葉である]ということが分からない訳です。"文句"を知らない側からしてみれば、[言われたことに丁寧に返した気遣い]という感覚なので、自分の気遣いが何故相手を不快にするのか分からないのです。

(※大丈夫とは思いますが、「お粗末様でした。」は、「ごちそうさまでした。」などと言われた後に食事を出した側が言う言葉です。)

私はこれまで、
『人はそれぞれ知識に差があるものだから、知識を共有できていない相手はその人が学ぶまで放っておく方が良い。』
と判断して、口を噤むことも多かったのですが、この学びを経たときに、
『知識云々ではなくて、私が『不快だ!』と感じたということを伝えなければいけない場面もあるんだな。』
と、理解した訳です。

この段階は本当に複雑な気がします。多分、他の人にとっては、
「それ、止めてください!」
と、思ったままに主張し続けることを早い段階で繰り返し、
『そんな風に主張すれば良いってものじゃないんだな。』
と、学ぶタイプの方が多いんじゃないかと思うんです。

分からないですが、私がこの部分に気付いたときに
『何か、今更こんなこと学ぶって、遅かったな。』
って気がしたんですよね。悲観的な訳ではなくて、
『こんな簡単なことに気付くのに、何で今までかかったんだろ?!』
って。

でも、この段階になると、
[他人を鏡として見つつ、他人と自分の差を受け止め、その上で自分が改めるべき箇所を見付ける]
と、かなり難しい方法で内観している感覚になったので、
『もう、『他人は鏡だ!』って思い過ぎない方が良くない?!』
という気分が強まっているのです。



私個人は大きく分けて
『他人が自分の鏡な訳がない。』
『他人は自分の鏡だ。』
『他人は自分を映してるガラスだ。』
『他人が鏡だと思い込みすぎない方が良い。』
こんな感じの段階を辿って、内観に役立ててきています。

確かに、他人だったり、目の前に現れる何かは、自分の中の何かを映していることにほぼ間違いはないのですが、

[いずれ鏡ほどくっきり綺麗に映してはくれない段階に差し掛かる。]

という点は押さえておいた方がスムーズに色々な心の縛りを手放せると思いますので、ピンときてる人は参考にしてみてください。



前に全く違う内容の記事でも書きましたが、私や、多分メテスのみんなも、ワンネス分離感、双方を理解しつつ、分離の世界をクリエイトする目的を持っているはずです。

なので、

[他者は他者。自分の映し鏡であると考え過ぎずに人間関係を構築すること。]

も課題の一部だと思います。

人間関係の不和は、何かと辛いし傷付くことも多いですが、対峙した問題を上手く足場として活用できる人が増えますように。


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