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あなたはネガティブではない


「自分はポジティブな人間だ!」
「自分はネガティブな人間だ!」
って、人それぞれアイデンティティがあると思います。

が、人間、"性格によって"ポジティブになっている訳でもネガティブになっている訳でもないんです。単純に思考の癖によって
[【ネガティブな物事】にフォーカスが当たる]
という自動運転状態になってるだけなんです。

だから、俗に言う【ポジティブな性格】にはすぐなれるし、それは厳密に言えば性格ではなくてただのジャッジ機能なので、
【ポジティブな物事にフォーカスが当たる]のが当たり前な自分】
にはすぐなれます。

『ネガティブを止めたい。』
と思っているなら、見直してみてください。



まずは体感してみませんか?

「下記の問題を採点してみてください。」

できましたか?

「採点してみてください。」
と言われれば、日本の場合は以下のような形で採点を行う人が多いと思います。同じ状態に採点された人がほとんどではないでしょうか。

では次は、
「下記の問題の中から、不正解の問をピックアップしてください。」

できましたか?

テストなんかの選択問題なんかでも、「誤ったものを選択しなさい。」系はよくありますよね。この問題での誤りは以下の3問でした。

では次は、
「下記の問題の中から、正解している問のみをピックアップしてください。」

できましたか?

この問題の中で正解していたのは以下の16問でした。

はい!ここで!
『間違ってた問題って、どんな問題だったっけ?』
って、気になった人いませんか?

恐らく、間違った問をピックアップした際には
『正解した問題って、どんな問題だったっけ?』
とは全く思わなかったのではないでしょうか。ところが、正解だけ見せられた途端、違和感というか、モヤモヤというか、落ち着かない感覚はありませんか?みなさんはどうですか?



日本の教育場面や、仕事において、
[不正解のものを放っておく]
ということをほとんどやらないんです。だから、
[【正解した問】だけをピックアップして【不正解の問】を無視する]
という行動に変な感覚を覚える人は少なくないはずです。

少しだけ趣旨は違うかもしれませんが、私も工業系の高校で実習なんかがあったのですが、必ず【ヒヤリハット】があれば提出しなければなりませんでした。ヒヤリハットとは、
【ミスや事故には繋がらなかったものの、危うく大事に至りそうだった、ヒヤリとしてハッとさせられた事例】
のことです。どんなに些細な事例であろうと、何かあった際は必ず報告するように口酸っぱく言われていました。

戦後、工業が経済発展を大きく支えてきた日本にとっては、こういう

『些細なミスを見逃さずに、大事故を防ぐ!』

という意識はずっと重要視されてきている側面は強いのでしょう。

どんな学校においても、
「教育」
と言いながら、学校の卒業後には組織の一歯車となって動けるような"訓練"を兼ねている側面も0ではないため、私たちは小さい頃から
「ミスを見逃さないようにしましょう!」
という意識が植え付けられている部分もある訳です。これは陰謀論だの洗脳だのという話ではなくて、日本を支えるためにある意味重要な側面であったことも事実なのです。

こういった経緯により、私たち、【日本で教育を受けてきた人々】にとっては、
[ミスをピックアップすること]
こそが最大目的だと言っても過言ではない側面は確実にあるのです。あくまで側面ですけどね。

だから
「正解"だけ"を集めてください。」
と指示されると何となくモヤモヤする人は、日本では少なくないのです。



さて。

私のブログの読者さん…というかブログをやってる人の層自体によるものでもあるんでしょうけど、私のブログを読んでくださってる人は圧倒的に、私より年上の人の数の方が多いのだと思います。分かっていながらハッキリ書くので『ギクッ』とする人もいるかもしれません。後述しますが、もし『ギクッ』としたのであれば、それはあなたが【変われるチャンス】を大いに所持している証拠になるので、まずは読んでみてください。

私(ゆとり世代)から見て、バブル世代や氷河期世代には
『ミスを指摘している自分は偉い!』
と強固に思い込んでいる人が物凄く多いなぁ、と感じます。

しかも、ミスをただ指摘するだけでなく、
[さも大袈裟に非難するようにして言及すること]
に気持ち良さを覚えている人がめちゃくちゃ多いように見受けられます。

[ミスを見付け、指摘すること]
よりもはるかに
[ミスを指摘して優越感に浸ること]
を優先している人が非常に多いのです。本末転倒になっているのに、本末転倒になっていることに全く自覚を持てていないんですよね。

↑この部分を読んで、『ギクッ』としたのであれば、自分の普段の言動に意識や自覚を持てる素質があるため、不必要なネガティブを排除できる人になる素質があるということになります。

もし、この部分を読んで、
『そんなことはない!その見方は間違っている!』
と、憤慨した人がいたら、これ以上は私の話は通じませんので、ここでブラウザバックしてください。話は以上になります。



何故、あえてバブル世代や氷河期世代などと世代を挙げたのかという部分の説明からしますね。

以前から何度か書いてきましたが、我々ゆとり世代は
・選択授業
・総合の授業
などが多く、
[個々で自分が選んだテーマについて自主勉強し、発表(乃至掲示)する]
という活動が多くなった世代なんです。(もしかすると、都道府県によって若干授業内容は違うかもしれません。分かりませんが。)そこで私たちが先生から言われ続けたのは、
「自分にも自分が調べて持つことになった意見があって、他の人にも他の人が調べて持つことになった意見がある。こういう、お互いの違いを認めていきましょう。」
というものだったんですよ。学校では
「人それぞれ、意見が異なるのは当たり前だし、それを認めていきましょうね。」
という教育を受けていたんです。

ところが社会に出た途端、【個人の意見】は認めて貰えることは一切なく叩かれ続けたのがゆとり世代の初期組です。丁度私と同世代は、自覚しているかはわかりませんが、
「いや、学校で習ったことと社会で言われること、全然ちゃうやんけ!どっちやねん!フザけんな!」
って、学校と社会、それぞれの空気感に振り回された人は少なくないはずです。まぁでもそこは今日の話の中枢ではありません。

問題は、社会に出た際、
[ただ意見が違うだけ]
という事柄に対しても
「それは間違いだ!!!」
と、鼻息荒く責め立てる人間(上司など)が多かった

という点なんです。私の体感では、上の世代の人たちは

【意見の違い】と【判断ミス】
の違いが分からない人

が多過ぎてビックリしたんです。

そして、
「いや、これは意見(考え方)が違うだけで…。」
と説明しようものなら
「それは言い訳だ!」
と、聞く耳を持たないのも定石でした。

ゆとりの初期世代がもはや中堅にあたる昨今においてもまだ、【意見の違い】と【判断ミス】の違いが分からない人もまぁまぁいるので、今日の話ではあえて世代を挙げてみました。



ゆとり世代全員とは言いません、私の周りだけだった可能性も高いのですが、私たちは
「人それぞれ意見が違う。それはそうだよね。かといって、「何しても良い」は絶対違うからね?!」
って、友人間での
・個性を出すこと
・礼儀をわきまえること

への見極めには物凄くシビアだったんですよ。だから友達関係を築くのに凄く気を揉んだし、そういうジャッジができないと即爪弾きに合うのが当たり前だったため、
『これは、個性の範疇か?世間的なマナー違反か?』
と見極めることがナチュラルに染み付いています。

何度も言いますが、ゆとり世代全員とは言いません。全員とは言いませんが、
「それは、やっちゃダメでしょ。」
と、堂々と自分の考えを伝える人間ばかりの中で生きていくには、それなりの状況判断ができないと世を渡って来れなかった人はかなり多いと思います。

だからこそ、
【明らかにわがままではなく、意見の違いの範疇】
に収まってる事柄だけを伝えているにも拘わらず、
「その意見は間違っている!!!」
と強い口調で叱責される会社という空間に対して
『だっる!』
と、IQが無くなる事態に陥ることが少なくなかった訳ですね。

今となっては何かとのらりくらりできる匙加減も身に付いてはいますが、それでもまだたま~に
【意見が違うだけなのに「お前が間違ってる!!!」と騒ぎ立てる人】
に対しては白い目で見てしまうことはあります。(私個人に対して、ではなくて若い人に対してやってるのをチラッと見た場合。助け船が出せそうな時なら出すけど、絶妙に首を突っ込めない時なんかは色々モヤモヤしますよね。←絶対、私と似たような気持ちの人、結構いる。)



まぁそんな私の愚痴・ぼやきなんですけど、それだけじゃなくて、

「単なる【意見の違い】なのか、相手の【判断ミス】なのか、見極めるところから始めた方が良い人は沢山いますよ。」

っていう部分をお伝えしたい訳です。

もっと言えば、

「『相手の意見が自分と異なること=相手が間違っているからだ!』っていう認識を改めることから始めなきゃいけない人は物凄く多いですよ。」

っていう部分もお伝えしたいですね。

あえてキツい言い方しますけど、
「何で『【意見の違い】なのか【相手の間違い】なのか』っていうそんな簡単なことすら認識できてない癖してそんな偉そうに怒鳴れるん?」
って、腹の底で思ってるのは私だけじゃないんですよ、と、いう話です。

まずは、
『何事においても、惰性で『これは自分の意見と違うから間違ってる!』って、判断していないかなぁ?』
と、自分を見直すところから始めることで大分【ネガティブなジャッジ】を減らせる人は沢山沢山います。ピンときている人は意識してみてください。



『間違っている人のことは放っておいても良い。』

ここを押さえておくことも大事なポイントです。

先程説明したように、日本人は特に【間違い】を放っておけない意識が蔓延しているため、いちいち自分が首を突っ込まなくて良いところにまで首を突っ込んでは
「間違ってる!!!」
と、怒り続ける人も結構多いんです。まぁ、日本の教育のスタンス上そうなってしまうのは仕方がない部分があることも事実なので、【放っておけない人】が悪いという話ではないんですよね。

ですが、
今、ここで自分が指摘する立場かな?どうかな?』
というジャッジはある程度できるようになった方が結果的に"自分が"楽になりますよ。

極端な例え話をしますが、自分の子供の授業参観に行って、教室の後ろの方で授業風景を観察していた際に、間違えた子がいたとしても、
「それは間違ってる!!!」
なんて、指摘しないじゃないですか?

それと同じように、
今、自分が指摘すべきか?指摘するのは自分ではないのか?』
って、一呼吸置かなきゃいけないタイミングって、世の中にはいーっぱいある訳ですよ。ですが、そういった
[TPO(時期、場所、場面)をジャッジすること]
をおざなりにしておきながら
[正しいか正しくないかをジャッジし続ける]
から色々とおかしくなるんです。

『いつでもどこでも間違いを正さなくてはいけない!』
という認識を止めて、
『より適切なタイミングでのみ、間違いを指摘すればそれで良い。』
と認識していれば良いんです。

『時には、【間違っていること】を受け流すのも必要だよね。』
と、ゆったり構えたスタンスになれれば、
『何でどいつもこいつも間違えまくってるの?!』
『間違いはダメ!正しなさい!』
『これだから最近の若者は…。』
とか、いちいち目くじらを立てずに済むんです。スルーできるんです。

スルーしていれば、余計なイライラも、余計な悲観も、発生することが格段に減ります。世の中には「スルースキル」なんて言葉もありますが、

『"たとえ明らかに相手が間違っていたとしても"スルーしても良い。』

ここを自覚しているのとしていないのではスルースキルの身に付き具合は格段に違うので、押さえておくことが重要なんです。



『間違いを放っておけない!』
という意識は、ある意味、日本の教育環境の弊害でもあると思うんですよ。

ですが、物事には全て、
・陰の要素
・陽の要素
が必ずセットで存在するんです。【量子もつれ】が起こるんです。

かつてから日本を支えてきた、
【ハイクオリティ且つ安心・安全な製品】
を生み出すためには、より幼い頃からの
『ミスを減らそう(無くそう!)』
という、
【ミスにフォーカスする意識】
が重要だったことも事実なんです。

現代の我々においては、
『【ミス】を徹底的に排除すべき場面、【ミス】を放置する場面、見分けて切り替えることが大事だよね?』
と、しっかり見直さないといけません

と、いうのも、コンピューター、ネット、AIと、
【演算によってミスを検出する精度】
が非常に発展してきているからなんです。【ミスの検知】に関しては人間より優れた存在がいるんです。

・100%ミスを検知できるコンピューター
・限りなく100%に近いけど100%ではない人間

仕事を任せるべきは一目瞭然ですよね?場合によってはダブルチェックも必要かもしれませんが、
[人間は何事においても100%にはなれない存在であるということ]
を自覚することこそが【ヒヤリハット】を防ぐための第一歩である
ということを見直さなくては本末転倒なんですよ。

この点を十分に理解すると、
『そうか。『いついかなる時であっても自分がミスを検知しなければいけない!』という思い込みは勘違いだった。』
と、分かるはずなので、仕事の住み分けを意識してみましょう。

"TPOを見極めること"が人間の役割なんです。

コンピューターに任せられる部分はコンピューターに任せることで、
[ミスにばかりフォーカスしてしまって、ネガティブに陥る]
という経験が確実に減るということを押さえておくと良いでしょう。人間は演算ではなく状況判断が仕事なんですよ。



ここにきて初歩の初歩な話を書きますが、
『自分はネガティブな人間だ。』
っていう自己認識は絶対に止めた方が良いです。

ネガティブな人、ポジティブな人がいるのではなくて、【ネガティブなジャッジをする人】、【ポジティブなジャッジをする人】が混在してるだけなんです。シチュエーション毎にネガティブジャッジになったりポジティブジャッジになったり、切り替わる人も沢山いるでしょうが、だからこそネガティブ、ポジティブは
【性質の違い】
ではなくて
【判断による違い】
でしかないのです。この点の認識を改めると、自己変容は早まります。

『性格を変えなければ…。』
ではなくて、
『自分のジャッジを見直さなければ…。』
と、取り組んだ方が確実に早いんです。と、いうか、

「性格は変えられないし、変えられるのがジャッジだけ!」

という部分が真理なんですよね。

『性格を変えられない自分はダメなんだ…。』
なんて落ち込む必要は一切無いのです。間違っているのは"自分"なのではなくて、自分の"判断が"間違っていることを自覚しましょう。



もしかしたら、この話に辿りついている人にとっては信じがたいかもしれませんが、この世にネガティブな人もポジティブな人もいないんです。
[自分がどのようなジャッジをしているか]
だけで、その物事がネガティブかポジティブかが変わるだけなんですよ。物事はいつでも
[ただそこにあるだけ]
良いも悪いもないんです。正も誤もないんです。良いであり悪いでもあり、正であり誤でもあるとも言えます。

だから、

「自分がそれを『良い!』にしてしまえばそれだけで『良い!』に変わる!」

ということなんですよ。自分で決めちゃえば良いんです。

と、いうか、既に自分が決めてるだけなんですよ。
『これは『悪いこと』だ!』
って、決め付けてるのは自分だけなんです。その決め付けを止めたらすぐ楽になるんです。

物事に対して『これは良いことだ!』って決めた上で、自分がそれを得たり体感した際に
『嬉しい🥰』
って、感じてるだけです。

物事に対して『それは悪いことだ!』って決めた上で、自分がそれを得たり体感した際に
『不快だ☹️』
って、感じてるだけです。

感じたい感情に繋がるジャッジをすれば良いだけなんですよね。

「それは間違いだ!」
と、大声で怒鳴り付けて、
『自分は間違いを指摘してやったぜ、してやったり😏』
って、気分良くなっているのは、
【自分が得たい感情】
のために他人を巻き込んでいる、酷い場合は足蹴にしているから良くない訳ですよ。

自分の機嫌は自分で取らないといけません。

是非、自己完結による幸・不幸を選択してみてください。【不快】を減らすことって、そんなに難しいことではないんですよ。



必ずしもそうではないんですけど、
「自分はネガティブだから…。」
と、言ってマイナスなことばかりあげつらっているだけな状態って、ある意味周りの迷惑になることもあるんです。そういうのは自重した方が良いと思いませんか?

自分が1人でネガティブな感情に浸るのは勿論自由なのですが、【水を差してはいけない場面】もあるものです。是非見極めて
・自分がより幸せを向けるようになること
・周りを不幸に引きずり込まないこと
意識してみませんか?



私は、
『自分は幸せです!』
って言い切れる人の総数が増えるように祈っています。

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