制裁
最近、私は編み物に恋し過ぎて、寝ても覚めても何してても編み物のことで頭がいっぱいです。だからブログ書いてる時間が無駄に感じて、書く気になりません笑
そんな中で、
『あー、なるほどねぇ。』
と、思ったことについての話。
まぁ、前々から微妙に触れたりもしてたんですけど、
【教育】
と
【指導】
と
【叱責】
は全部違うんですよね。
これ以外にも、
【伝える】
と
【教える】
と
【説明する】
も違えば、
【怒る】
と
【叱る】
と
【罰を与える】
も、全然違います。
にも拘わらず、これらを色々と混同してるバカ考えなしが世の中に多いから、精神が歪んだ人間を量産してる訳ですよ。
このことに、ずっとほんのり気付いてはいたんですけど、改めて
『あー、なるほどね。『失敗した人間を自分が裁いて良い。』『失敗した人間には自分が制裁を加えて良い。』って勘違いしてる人間が多過ぎるんだね。』
って、解りました。
いやぁ本当に。今まで私が受けてきた理不尽な制裁の原因が判明して、ちょっとスッキリな反面、
『私はあんなバカ共に潰しにかかられ続けてたんかよ。ふざけんな!!!』
って、怒りも湧きます。チキショー。
[一般的()な人生のルートから外れる]
↑これって、悪いことじゃないですよね。人それぞれ、人生は違って当たり前なんです。
ですが、人間は
【これまでと違うこと】
【自分の想像が及ばない物事】
【見聞きしたことが無い何か】
などなど未知のものに対して恐怖心を覚えやすい訳ですよ。そうなると、
【一般的()に当たり前とされているライフスタイル"から外れたライフスタイル"】
を見聞きした際、恐怖心を覚えやすいんですよね。勿論、当人はそれが恐怖心だとは自覚していないでしょう。
『コイツは変わった生き方をしている!いけないことをしたヤツだ!』
と、しか考えないことがほとんどではないでしょうか。
詳しく紐解いていくと、
『自分の想定から外れている。』
↓
『自分に恐怖心を与えた。』
↓
『コイツは悪だ。』
↓
『悪は攻撃して良い。』
っていうバカな理屈のせいで私はこれまで攻撃されてきたことが多かったんだ、って、理解しました。バカというかチキンですね。くっそ。ほんま、世の中ビビりが多過ぎんねん、うっとーしー!
でも、じゃあその理論なら、私のことを精神的に攻撃してきたお前らは、私から攻撃されても何も文句言わへんねんな?自分の行いへの償いはしっかりやんねんな?やったら私のこの話読んで心の底から反省しろや!
(はい、そんな人が私のブログに辿り着くなんてないんですよね、知ってます。)
私の視点からすればたまったもんじゃないですよ。私はただ私の人生を歩んできただけなのに、その人生や、人生を歩んできた私に対して
勝手に恐怖心を抱かれて
それなのに、
当人は恐怖心を抱いてるとは一切自覚せずに、私のことを悪者だと決めつける
挙げ句の果てに
悪者だと決まった相手はいくらでも罰を与えて良いと思い込んでいる
ため、
説教のフリをして酷い攻撃的な言葉を投げ付けてくる
のですから。
しかも、対等な立場ならまだしも、上司とか面接官とか客とか、私が逆らいにくい立場だと解っていながら一方的に責められたことばかりなので、悔しいけど我慢し続けるしかできなかったんですよね。今から考えれば、吹っ切れて反撃しとけば良かったです(  ̄- ̄)(←それなりにしたこともある癖に笑)
まず基本的に、
「何かミスをしてしまった人に対して刑罰を与えてはいけない。」
のだと、そんな低次元な話から見直さなきゃいけない人が多過ぎるんですよ。
法律上、
①訴えられて
②裁判で有罪になって
初めて刑事罰が加わる
それだけなんです。
日本国憲法 第三十一条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
そう。これは逆説的に
「法律の定める手続きによらなければ、何人も生命若しくは人生を奪われ、又はその他の刑罰を科してはいけない。」
と、ほぼ同義なんだと、そんな簡単なことから考え直さないといけない人間が多過ぎるんですよ。
自己判断で勝手に他人に制裁を加えてはいけないし、他人に制裁を加える権利なんてそもそも私たちには与えられてないんですよ。法律上、ね。
まぁでも分かりますよ。家庭内や学校を中心に、
「躾!」
と称した罰則を与えるのが当たり前
だとか、物凄く表面化しにくい意識下の中で
『悪いことをした人間は罰せられて良い。則ち、自分が悪いことをした人間を罰して良い。』
って思い込んでいるだけから、当人もそんな思い込みを抱えてることすら気付いていなければ、
『その考えはおかしいのかもしれない?』
ってまず思わないんですよね。知ってます。
ですが、本来、何かミスしてしまったり、やってはいけないと定められていることを行ってしまった人というのは、
①訴えられて
②裁判で有罪になって
初めて刑事罰が加わる
という経緯を辿らない限り、罰せられてはいけない存在なんですよ。
法に則った世界において
【誰からも罰せられて当たり前な人】
なんて存在しない訳です。
【自分の判断で勝手にジャッジして、制裁を加える人】
こそが法を犯している罪人なんですよ。シチュエーションによって、何罪に該当するのかはそれぞれ異なりますが、訴えられたら負けるのはこちら側の人間になる可能性の方が高いのだと、自重しなきゃいけない人間は沢山いるんです。
もっと深いところに切り込めば、
『あぁ、自分は恐怖心から相手を責めたくなってるんだなぁ。』
って、自覚位しろよ、と、私個人的には思ってしまいます。
『コイツは悪者だ!制裁は加えられて然るべき!』
と、決め付けているのは、自分でしかない訳ですよ。それなのにあたかも
『世の中の常識として、悪は成敗されるのが当たり前だからだ!』
って、周りのせいという体でいるんです。自分の判断であろうと言動であろうと自分で責任を負ってないんですよね。
なぁ、自分の判断と言動にすら責任取れへん奴に、他人を裁く権利があるって、本気で思ってんのか?
通じないんでしょうけど、私がいっちゃん嫌いなパターンなんですよね笑自立もろくにできてないような人間に他者を攻撃する資格なんて無いですよ。
ましてや、その根元を紐解けば、ただただ
『自分の理解が及ばない存在が怖いから。』
というだけで屁理屈を捏ね回して、もっともらしい理由があると見せかけた上で他者を攻撃してる訳じゃないですか。
自分の理解が及ばないのも、相手のせいだと押し付ける。更に自分の臆病のせいなのに【自分の臆病さ】の解消に努めようとは一切せず、他人を攻撃し続ける。もし、いざ自分に攻撃されたとしても絶対に受け止めきれない位の勢いで他者を攻撃するんです。そして、それら全ての自分の思考・言動が見えてない訳ですよ。
自分すら見えてない奴が、他人の行いを全て見通せてると思ってるんかよ。他人の言動を裁ききれる程の判断材料がお前の中に積み上がってると思ってるんかよ。
(思ってるんだろうけど)本当、こういう、他人に害を与える人って漏れなく図々しいよなぁ、って私は感じる経験が多いです。インターネットの中を中心に、そういった執拗な攻撃を繰り返す図々しい人間は総じて日本語を話してる日本人じゃない人なんじゃないかと思えて仕方ありません。
日本の心はどこへ消えたんだよ。
「日本人は謙虚過ぎて良くない。」
っていう言葉もよく聞いたことがありますが、
「日本人は謙虚にならないといけない。」
と、思う場面の方が多い気がします。私の経験上では。
と、いうか、これも
【謙虚】
と
【引っ込み思案】
と
【卑屈】
はどれも違うし、履き違えてないであるべき姿勢を心掛けられるよう気を配るのが1人の人間としての責務なんじゃないでしょうか。責務…というか、
『自分を律することで、他人への"迷惑を減らす"。』
という配慮の一種だと思いませんか?
そして、その"配慮"を欠いているような人間に
『他人を裁く権利がある。』
なんて、到底考えられないと思うのですが…世の中、履き違えの連鎖が蔓延していて、びっくりする位自分が見えていない人が多いし、自分の言動で他人に迷惑を掛けているに留まらず、他人を攻撃している人がとても多いですよね。
本当にさぁ。日本に必要なのは【英会話教室】じゃなくて【日本語教室】だわ。しょっちゅう思います。
[自分ができないこと]を他者に頼むことは、迷惑を掛けることではないんですよ。
「できないので、やってくれませんか?」
【交渉】や【依頼】なんですよね。
ところが、世の中には
『弱者は優遇されて然るべき!』
みたいな変な思い込みも蔓延しているせいで、それを悪用してる人も沢山いるから、
「(できないんじゃなくて、面倒臭いだけだけど)やってくれますよね?」
って押し付けてる場面も沢山あって、そのせいで
『他者に頼むこと=迷惑をかけること』
と、履き違えてしまう結果になった人もめちゃくちゃ多い訳ですよ。
こうして、図々しい人はずっと他者に押し付け続けるし、人に頼めない人は自分1人で抱え込み続けるしで、面の皮が厚い人間ばっかりが良いところだけ掬いとってしまうという悪循環が生まれ続けやすいのでしょうね。
STOP悪循環!気付いた人から勘違いを止めていきましょう。
自分ができないことは、
「できません。代わりにやってくれませんか?」
と、聞いてみる勇気を持つのも時に大事です。ただし、[代わりにやってくれる]or[代わりにやってくれない]どちらに転ぶかは相手次第であることも念頭に置いておかなければなりませんね。間違っても
「代わりにやってくれませんか?」
と言ったら100%相手がやってくれるものだと決め付けてかかるのは、それは違うのです。
あくまで交渉。代わりにやってくれるのならばそれは有難いことであって、代わりにやってくれないのならば
『これは"自分の"課題なのかもしれない。』
って、謙虚に受け止めることが必要な場合もあるんです。
とはいえ、
『人に迷惑をかけてはいけない!』
っていうブロックが強固な人ほど、他人に頼んでみたらあっさり願いを聞き入れてくれることの方が多いと思うので、まずは勇気を出して他人を頼ってみるというチャレンジが大事な場合が多いものです。
そして、こんな風に書いたら、普段から図々しい人程
『もっと他人を頼らなきゃ~☆』
って都合よく受け取ることも世の常なんですよね。この手のタイプは
『自分は普段から他人に頼りっぱなしである。』
と、いう部分が見えてませんからね。
この手の人たちにどうしたら伝わるのかは私には分かりませんが、これも気付いた人から、
『人にお願いすることと、頼りきることは違うんだな。「やってくれない?」って聞いてみるのと、「やってくれるよね?」って押し付けるのは全然違うことなんだな。』
って、振り返る必要があります。
こういった部分への理解ができている人が増えると、自然に集合的無意識の力によって気付ける人がどんどん増えるので、とにかくピンときている人がしっかり腑に落としてくれさえすれば、それで良いのです。
「私的制裁を加えてはならない。」
これは、日本の法律で定められている事実なんですよ。
現代では、ネット等の匿名性を利用して
「悪いことをしたお前は罰せられて然るべき!!!」
と、制裁と称した執拗な攻撃を行う人も少なくありませんが、それは、[悪人へ制裁を与えている]
のではなく、
[自分が法を犯している]
のだと気付かなければなりません。
ネットだけじゃありませんね。
表面化し辛い場面も多いかもしれませんが、
「お前は間違ってる!!!」
と、いう執拗な叱責は指導の範疇ではなくて、ただの憲法違反なんです。
他人を指導する前に、自分の行いを振り返りなさい。話はそこからです。
ですがどうも、
『悪いことをした人は罰せられるのが当たり前。(それが悪いことだとジャッジするのは自分だし、自分が制裁を加えて良い。)』
という意識がおかしいことであると理解できない人の数が驚く程多いようなので、是非、気付いた人から意識してみてください。
恐らく、この話に辿り着く人は何かしらのハラスメントを受けた被害者側の人の方が多いとは思いますが、ボイスレコーダーや動画、写真、メール等の文書、あらゆる証拠さえあれば、訴えることもできるということを念頭に置いておくと良いでしょう。訴えて必ず勝訴するか…などは分かりませんが、
『制裁を加えようとする人間の意識が間違っているんだ!』
と、頭の片隅で理解しておけるだけで毅然と対応できるはずなので、心で負けてしまわないよう、堂々としていましょう。
一方、生きていると、どーーーしても許せない相手と対峙する場面もありますよね。
ちょっとフワッとした表現になりますが、どうしても許せない相手に対しても
「制裁は天に委ねてください。」
これが一番自分自身のためになるんです。
仕返しや制裁を考え続けながら執着心を手放さないでいるのではなく、
『再発の抑止に繋がる方向で考えてみる。』
ということを心掛けることで精神衛生を保ちやすく、最終的に自分のためになります。
【何をどう考えても、「相手が悪い」としか言い様のない相手】
なのであれば、そんな相手のことを考え続ける時間を設けてあげる必要なんて、一切無いんですよ。それよりも、【明らかに(自分にとっての)悪者】に次同じことをされても躱せる方法について考えてみるとか、自分と似たような被害者を生まないための防衛方法について考えてみるとか、そっちの方向に思考を巡らせてみた方がよっぽど実になります。
ただし、"防衛"が"先攻"にならないように気を付ける必要もありますが。
"自分にとって"明かな悪者って、世の中には存在してるものだと、私は思うんですよ。
「世の中には様々な愛の形があるから…。」
なんていう言葉は綺麗事だと思うし、そういうことを唱える人間程、【"愛と称した"攻撃】の常習犯だと、私は感じる経験が多かったんです。ですが、【自分にとって明かな悪者】だからといって、他者にとっても悪者になるとも限らない上に、必ず社会的制裁が加えられるかどうかも分からないのがこの世なのではないでしょうか。
[(自分にとっての)悪者に制裁が下るか否か]
はギャンブル的な不確実性が大き過ぎるんです。そんなことのために自分の身を粉にしてあげる必要なんてないと私は考えています。そんなギャンブル的思想からは一歩引いて、確実に自分のためになりそうな、自己投資的考え方をするように心掛けた方が明らかに未来は拓かれていくので、恨みに蝕まれ続けずに済む人が1人でも増えたら良いなぁ、と思います。
悪いことをした人間が罰せられるのは教育ではないんですよ。罰は罰でしかないんです。
その辺の理解が及ばない人が1人でも減りますように、私は祈っています。
何より、不必要な攻撃・被害を受けずに済む人が沢山増えますように。
真の意味での強さを持った人が少しずつ増えますように。
私はもう二度と臆病者からの攻撃には屈しません。