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NO REASON


「No reason!」
って聞くと、昔のコカ・コーラのキャッチフレーズのイメージが浮かぶ…

…🙁💬

ひっさしぶりにペプシ飲みてぇ‼️
(なんでそーなる)



『周りに認められたい!』
『誰かから愛されたい!』
って、自分の外側に求めてしまってる時点で、精神的にちょっと歪んじゃってる、ということを自覚した方が良いですよ。

世の中には、
「大なり小なり承認欲求は誰にでもあるのが当たり前だからね~。」
などの言葉もありますが、他人への承認欲求が無い人もいます。承認欲求はあるのが"当然"ではないんです。

周りに認められたい!』
と、思ってしまうのは、自分で自分を認めてあげられてないからなんですよね。自分で自分を認めてたら、他人から認められる必要性なんて感じません。ただ、現代の価値観として
『友達が沢山いる方が勝ち組』
『フォロワーが沢山いる方が勝ち組』
みたいな思い込みを植え付けられている側面もあるせいで、
『"誰か"から認められてないといけないんだ💦』
といった焦燥感を持ってる人も沢山いるでしょう。ですがその焦燥感は承認欲求とは別物だと理解した方が良いです。

自分で自分を認めることができれば承認欲求なんて消えます。まぁこの場合、先程書いた焦燥感は残る場合もなきにしもあらずなのですが。

承認欲求に限らず、自分で自分のことを愛せていれば、他人から愛されなくても十分満足なんです。
『"誰かから"愛されたい!』
と感じてしまっている時点で、自分で自分を愛せていないということに早く気付いた方が幸せが近付くと思います。ピンときてる人は意識してみてください。



そうは言っても、自分で自分を認めたり、自分で自分を愛するのって難しいんですよ。誰か他人から認められたり愛されないと気が済まない族の人は、漏れなくそうだと思います。

こんな風に
「自分で自分を認めてあげましょう。」
「自分で自分を愛しましょう。」
という話をすると
『そんなの無理だよ!認めてあげる要素が無いもん!愛する要素が無いもん!』
の、ような意識が湧きませんか?もし、湧くのであれば、それはもう完全に拗らせてる証拠です。

自分を認めてあげるのに、理由なんて要りません。

自分を愛してあげるのに、理由なんて要りません。

にも拘わらず、頑なに
『理由もなしに自分を認めたり、愛するなんて、できない!』
と感じるのであれば、色々な部分の自己変革が必要なので、自分で自分を認め、愛せるようになるには、少し時間も手間もかかるかもしれないのです。かからないのかもしれません。人それぞれ条件は異なるので一概には言えないのですが、簡単に自分を認めたり愛せない時点で、
[自分を認めること]
[自分を愛すること]
への定義がそもそもずれている可能性が高いのです。



『自分を認められない!』
という状態は、多くの場合
『○○ができない自分なんて、認められない!』
とか、
『△△なことをやってしまう自分のことなんて、認められない!』
の、ように"何かしらの条件に付随して"自分が認められるべき存在か否か、ジャッジしてしまっている状態ではないでしょうか。

『こんな自分ではダメだから、認められない。』
『こんな自分で良い訳ないから、認められない。』
などのように、
自分が掲げる基準値に到達できていない(あるいは外れている)自分は認められるはずがない!』
と思い込んだ上で、自分は認められるのか認められないのかをジャッジしている人が、自分を自分で認められないのだと思います。そして、
『(自分では自分のことを認められないけど)"誰か"には認められてないと生きていけない!』
のように考え、
[自分のことを認めること]
を他人に丸投げして押し付けている人が世の中には沢山いる訳ですね。この、
『(自分では無理だけど)あなたは、私のこと、認めてね?』
という無言の圧が、
「あの人って、承認欲求の塊だよね。」
と、疎まれる原因の根源になってるんです。

もう一度説明を書きますね。

・特定の何かができない自分
・良くないことをやってしまう自分
など、
『【目標の自分像とかけ離れた自分】は認められるはずがない。』
と、いう思い込みは勘違いなのです。そう思い込んでいる人は大抵、幼少期に周りの大人から
『○○ができたから、偉いね!』
『△△をする子なんて、知りません!』
のように、条件を突き付けられるような育てられ方をしていたはずです。そうして【周りの大人が都合良く扱いやすい人間】の基準値からズレている自分のことを認められなくなってしまった人が
『自分が認められるには、条件をクリアしていないといけない!』
と、強固に思い込んでいるのです。全員とは言いませんが、多くの場合が【自分の周りの大人から認められる自分像】に当てはまっていない自分をどうしても認められない訳です。



ですが、それがそもそもの勘違いなんです。

[自分を認める]
とは、
『自分って○○できないよね。』
『自分って△△やっちゃう人だよね。』
と、
[認識すること]
でしかないんですよね。

『○○できないこと=悪いこと』
『△△しちゃうこと=悪いこと』
のようなジャッジは本来、一切要らないんです。

私個人の例え話ですが、私は子供の頃母から
「どんくさい!」
「何でそんなこともできないの?!」
と、私の運動神経の悪い部分に対して、バカにしたり、見下したり、できないことに対して過剰に怒ったり…と、散々蔑まれてきたんです。だから子供の頃から
『私はどんくさいんだ…。』
と必要以上に思い込んで、よりどんくさい行動をしてしまっていたり、
『私は運動神経が悪いんだ…。』
と、必要以上に運動への苦手意識を持っていて、運動に関連するあらゆるスキルの向上ができずにいました。

昔は
『運動神経が悪い私はダメな人間なんだ…。』
という劣等感も強く抱えていて、未だに【運動が苦手な自分】であることに引け目を感じることも少なくありません。(後述しますが、最近はほぼなくなりましたが。)

だから、飲食店の仕事など、素早く動く必要のある仕事なんかでは必要以上に
『私はできない人間なのだから、人より工夫しなきゃ…!』
など気を張ってみたり、どんなに普通に仕事をこなしていても
『これはきっと他人から見たらできているのではなくて、当たり前の範疇なんだ…もっと速くならなきゃ…。』
など自分を追い込むような考え方になってしまうこともしょっちゅうだったんですよね。

私の場合、
『私は運動が苦手な人間だ…。』
という劣等感が強過ぎたため、同じように身体を動かすような仕事が遅い人に対しては気持ちが分かり過ぎました。そのため、
「しんどいよね、でも、頑張ろうね?」
という気分になったので、その点に関しては
「(他人に対して)もっと速くなりなさいよ!」
などと怒りを露にすることはほぼありませんでした。

でも、世の中では、そういう【ダメな自分の投影】をしてくる人に対して物凄く怒る、という場景も多々あります。

私個人の場合は【だらしない自分】が嫌いで嫌いで仕方なかったため、だらしない人を相手にするとかなり怒っていました。こっちは未だに許せていませんね。



今の私となっては、
「どんくさい!」
と言われることはなくなりましたが、(と、いうか、子供の頃から、私のことをどんくさいと言ってたのは母親だけだったんですけどね)もし仮に人から言われたとて、
「せやで?」
位にしか思わなくなりました。

『そりゃあ、編み物だってできるし、仕事の段取りも上手いし、複雑な話を単純化して説明できたり、必要とあらばPCで絵を描いたり、図解もできたり……できることが多いんだからできないこと位あって当たり前でしょ。』
位にしか思わないのです。

・編み物ができる
・速く走ることができない
これらは私を構成する要素でしかないんですよね。それらに良いとか悪いは無いんです。りんごが
・皮は赤い
・中身は黄色い
のと同じ話でしかないんです。だから今の私は運動神経が悪い私に対しても
『それが私だよね。』
と、認めているのです。

先程書いた【だらしない他人】に対して許せていないのは、これは複合的な理由を含んでいるため、自分を認めるとか認めてないという話とは別の話なのです。なので今日の話では詳細は書かないのですが、こんな感じで
・"自分のことを認められないから"他人に対して腹が立つケース
・自分のことを認めている、認めてない"関係なく"他人に対して腹が立つケース
などなど色々ありますよ、ということを一応書いておいただけです。

どんな私であれ、
『私にはそういう要素があるんだな。』
という話でしか無くなった

という話なんですよ。こういう状態が
「私は私を認めています。」
っていう状態ですね。

自分を認めるということは合否判定ではないんですよ。



私は、その
[自分を認めるということは合否判定とは違う]
という点が分からず、長いこと自分を認められずにきました。何なら自分を認めるということがどういうことなのか検討もつかない中でぐるぐるぐるぐる迷子だったのです。解ってからは
『自分を認めるって、そんな簡単なことやったんか!悩んで損したわ!』
の、ような気分にもなりました笑

『自分を認められない😖』
と、いう心境に陥ったとしても、とりあえず

「でもそれが私だよねー(ハナホジ」

と繰り返すだけで、簡単に自分のことを認められるようになります笑まぁ、筋トレのように、繰り返し何度も行う必要はあるかもしれませんが、やることは単純明快です。

何が起こっても
「でもそれが私だよねー(ハナホジ」

小学生男児のような態度になるだけで良かったんです。自分を認めるということに深い思慮など一切必要ありませんでした。



「自分を愛する」
これも、私にとって物凄く難しいことだったのですが、つい先日やっと、何となく解ったんです。

「愛する」
って、深い話だと思うし、定義付けるようなものではないと思うので、皆さんそれぞれがしっくりくる状態を探してみて欲しいのですが、私に起きた出来事を書いてみます。

私は「自分を愛する」のにも何となく
『条件が必要なんじゃないか!?』
という感覚から抜け出せなかったんですよね。
『どうしたら自分を愛せるんだろう?愛し方がわからない…😖』
と、こっちもぐるぐるぐるぐる止まりませんでした。

先日のこと。物凄い不安感に駆られたんですよね。何故か不安で不安で仕方なくなってしまったんです。そのときに
『大丈夫だよ、何があっても私が守ってあげるからね。』
と、自分をハグするような形でなだめてみると、自然に
『あ、自分を愛するって、これか!』
と、判明したんです。

変な話かもしれませんが、自分の中に自分が2人いるような感じで、
『何があっても、この子と一緒に生きて行くじゃん、それは当たり前じゃん。』
と、いう気持ちを感じたんです。更に、
『何があっても、一緒なら大丈夫だよね。』
『どんなことが起きても、私(たち)なら一緒に乗り越えて行けるよね!』
の、ような気持ちでもありました。

こういう、
『私は私と生きて行くし、人生で何が起きても一緒なら大丈夫だ!』
って、【確信のような感覚】を覚えることが、自分を愛することなんだと、感覚的に捉えられたんですよね。

『私が私のことを支えるし、守っていくし、一緒なら大丈夫!』
って、確信を得たときに
『私は私を愛してるんだな!』
と、ピンときたんです。



ここまでくるのに長かったですね。前々からブログに書いてきたように、自分との信頼関係が皆無だったところから、紆余曲折ありながらもどうにかこうにか自分との信頼関係を取り戻して、やっと
『私は私を信じてる、と、いうか、共に在るのが当たり前じゃん。』
って、【絶対に切れない絆】を感じることができました。

このことから、
「[自分を愛する]ためには[自分との信頼関係を構築する]という条件が必要。」
って言い方もできるはできるんですよ。

ですが、確信を得て解ったのが、
『自分と自分の中には、絶対に切れない絆があるのは、当たり前だよね。信頼関係が出来上がってる状態が自然だよね。今までの愛せてなかった状態が異常だっただけだよね。』
っていう部分なんですよね。だから、

「自分で自分を愛するために、条件なんて必要ないんです。」

っていう、こっちの方が正しい在り方ではあるんです。

難しいですよね。人間的な自分というか、自分を愛せてない自分にとっては
『自分を信じるなんてできないし分からない!』
っていう感覚なので、そんな状態では自分を愛せない感覚で当たり前だったんですよ。その状態から、
『あ、自分と自分には絆あるのが普通だったわ!』
と、思い出してやっと、
『『自分を信じるなんてできないし分からない!』っていう状態が不自然だったんだな。』
って理解できて、
『自分は自分を愛してたんだった!』
って初めて感じられたので、私にとっては自分を愛する(自分を愛していたことを思い出す)ことが簡単なことだとは到底言えないですね。

『鍵のかかった部屋に閉じ込められてるのに、鍵は扉の外にあるから自分では取れないのに、ここには自分しかいない。』
っていうそんな感じだったので、
『誰でもかれでも簡単に自分を愛せるようになりますよ◎』
とは、私は口が裂けても言えない気分です。

この話を読んで難しく考えて欲しくはないんですけど、
「自分は人から愛された経験もないし、自分のことを愛することもできません。」
っていうような人に対して
「そんなことないよ!」
とかは軽々しく言えないなぁ、と、再認識したっていうことです。



少し前に
「愛の対義語って、迷いだと思うんですよね~。」
って話を書きましたが、今回の経験を経て
『あ、やっぱり愛って確信に近い感覚なんだな。』
って、私個人は感じました。信頼、とか、『一緒に生きていく!』っていう決意にも似た、力強い感覚でした。

が、先程も書いたように、人それぞれ【愛】というものへの感覚は異なると思うので、是非是非色んな人が自分オリジナルの愛の感覚を体感できると良いなぁ、と思ってるんですよ。私のエピソードは一参考程度に読んで貰えると良いのかなぁ、と。

そんな中で、私個人は
『愛って、確信(に似たもの)なんだな。』
の、ような感覚を覚えると同時に、
『だとすると、人に気安く「愛してる。」とか言えないなぁ。』
って、感じたんです。

これまでの私は愛が何か分からないから「愛してる。」とは言えない人間だったのですが、昇格して、より一層「愛してる。」と言えない人間になりました笑

そう。これも私個人の感覚でしかないんですけど、相手のことを大事に思えば思う程、
『そんな無責任に「愛してる。」とか、言えない。』
って感じたんですよね。ここを理解したら、何だか、かつての彼氏の男心を理解したような気がするんです。特にツインレイパートナーの人はこういう感覚だったんだな、って、妙に確信に近い理解を得ました。

『矛盾してるみたいな感じだけど、愛してるからこそ形に表せない!』
っていう葛藤のような感覚が凄くよく解ったんです。私、肉体は女なのに、男性ツインレイの学びを経験してる気分になることがこれまでもちょいちょいあって、今回のも正しくそれですね。ちょいちょい複雑な男心を体験してる気がします。

何て言うか、世の中には
「愛してるよ~。」
って、自然に言える人も沢山いるだろうし、それはそれで愛の形なんだろうけど、私個人はそんな軽々しい感じで愛を扱えない気分になったんです。

『自分が自分を愛してるのは自然なこと。』
で、当たり前の状態ではあるんですけど、文字通り"自然"って雄大なので、ライトには扱えないなぁ、って感覚です。上手く伝わるかなぁ?

何を言いたいかというと、
「「愛してる。」
って言えば良いってものでもない!」
っていう愛の形もある
ということも一部理解して貰えると良いんじゃないかなぁ、という部分です。

「愛してる。」
と口に出してることが即ち軽いという話でも決してないんですけど、世の中の主に女性の方が
『「愛してる。」って言って欲しい!』
『形にして欲しい!』
って考える人の割合が多いのではないでしょうか。そういう人たちに向けて、

「形に現れてないことこそが、本当に愛されてる証拠である場合もありますよ。」

って、少し伝わったら良いのかなぁ?と、思います。

まぁ…こればっかりは体感しないと分からないものなのかもしれませんが、間違いなく

「愛の形は他人に強要するものではないんですよ。」

という部分だけが沢山の人に向けて断言できる内容ですね。そこだけ伝わったら良いのかもしれません。



・自分で自分を認めること
・自分で自分を愛すること
これらに条件も理由も必要ないんですよ。

延いては、
・他人から自分が認められること
・他人から自分が愛されること
これらにも条件も理由も必要ないんですよね。本来ならね。

自分は自分でしかないし、そんな自分と生きていくのは至極当然のことであって、そこに条件も根拠も理由も何も要らない訳ですよ。

『誰かから愛されるためには、何か条件を満たしていなければならない!』
っていう勘違いのせいで、条件を満たせてない場合に誰からも愛されないという現状を生み出してしまうだけであって、この世には愛されることのない人なんて絶対にいないんです。本来ならね。



世の中の「成功者」という風な呼ばれ方をする人たちの中にも、
「自分はこんなにも頑張って、こんな風に条件を満たしたから成功したんです!」
と、
頑張ったから愛されてるアピール】
をする人、物凄く物凄く多いんですよ。だから、なかなか
『頑張らなければ愛されない。』
という勘違いの助長が無くならない側面があります。ですが、どうか
・社会で成功すること

・大勢の人から愛されること
の間に因果関係など無いということ、
・誰かから愛されること

・自分が努力しなきゃいけないこと
の間にも因果関係など無いということ、ピンとくる人が増えると良いなぁ、と私は思ってます。

力まなきゃ生きられない社会なんて無くなれば良いと思ってるし、力んで生きてる大勢の人が力を抜けるようになると良いなぁ、とも思ってます。

必要な人に何かしらのヒントが届きますように。

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