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愛の対義語


何か、noteの仕様がごちゃごちゃして、ウザくなったから、また何人かフォロー外しました。だから、私のフォローも外して良いですよ◎

と、一応書いておくけど、数だけ相互フォローを求めてる人たちは私のブログ読んでなさそう&こんな風に書かなくてもフォロー外されたら秒で外し返すであろう、ってゆー、偏見(笑)



私は
「愛とは何ですか?」
って聞かれたとしても答えられません。
『この世に愛なんて本当にある?』
って位、愛を体感する経験が乏しいです。

最近やっと、自愛の感覚とか、自分の周りの物や趣味に対して抱く感覚に関しては
『お!何か、この感覚が愛っぽい!』
って感じるようになってきてはいます。それでもまだ、それをもう少し具体性の帯びた言語にまでは変換できないので、的確に捉えられてはいないのでしょうね。

愛って難しい。



そんな中でふと
『愛の対義語って何だろうな?』
って考えてみました。私の中では(今のところ)

『【愛】の対義語って、【迷い】だなぁ。』

って思ってます。愛が何かはよく解んない癖に、愛の反対側にあるものが何なのかは結構ビシッと解るんですよね。

今までも色んな形で色んな記事に書いてきたように、私はこれまで、愛とは無縁の人生を歩んできました。そこから徐々に徐々に愛というものを知っていってる…と、いう感覚を覚えています。

そのため、どんどん自愛ができるようになるにつれ、迷いというものが格段に減っていくのを実感し続けているんです。疑問が湧いたとしても、速い時では数分後にでも潜在意識が顕在意識にまで答えを届けてくれるとか、自分にとっての正解や正しさのようなものがハッキリ解るとか、心の視界がどんどんクリアになってきてるんですよね。

だから、
『愛の対義語って、迷いだな。』
と思うし、
『他者を迷いの中に引きずり込む人間には愛が無いんだな。』
ってハッキリ感じます。



世の中では
「愛の対義語は無関心である。」
っていう言葉もあるようですが、私個人的にはそれは違います。

無関心の対義語は関心ですよね。人間社会の中で[関心がある]ということが則ち愛であるとは、私には思えません。関心は執着に結び付くこともあるし、執着は愛ではないからです。執着なんて、呪いに近い感覚があります。

だから、
「私はあなたに関心があるのだから、私はあなたを愛しているよ。」
という理屈は私には通りません
「私はあなたに関心があって、もっと理解を深めたいと思ってるよ。」
愛って↑こういう感覚だと思うんです。関心を持ってるだけでは、それはまだ【愛】とは呼ばないんじゃないでしょうか。



それで、この前チラッと書いたことともリンクしてくるんですけど、
「この世には自分しかいない。」
とか
「ワンネスだから、みんな1つなんだ。」
って思想あるじゃないですか。それらが、確かにそうでもあると感じつつ、

『でもそれってさぁ、言い換えれば他者の存在を認めないって言ってるようなものだよね?それって、愛の無いスタンスなんじゃないの?』

と、思う訳ですよ。


私はさぁ、めちゃくちゃ悔しいけど、
『うーわ、コイツ、嫌い!』
って思う人間がいっぱいいます。いっぱいいても、
『まぁ、そういう人もいるんだよなぁ。』
って、[存在すること]は認めてしまってるんですよね。本気で消しにかかる気なら、私の意識の中からそういうタイプを排除しなければいけなくなるのですが、スルーが下手なんです。

ですが、自分軸が強い人というか、スピリチュアル意識が強い人というか、
「ワンネス~😌💗」
とか
「みんな、本当は1つなんだよ💗」
みたいな発言をするタイプの人たちって、その人の嫌いなタイプの"存在"を頑として認めないスルースキルが異様に高いと感じるんですよね。

私の母もそうなのですが、"無意識に"全力で私の気配を感じる物を排除しにかかるとか、"無意識に"ナチュラルに私の意見を無視するとか、彼女の中に私の存在が無いんですよね。入っていかないんです。

母だけじゃなく、世の中にはちょいちょいそういうタイプがいると感じます。頑なに自分と違う意見をスルーするとか、自分にとって都合の悪い意見を言ってる人の話が顕在意識に届かないよう、自動的に排除してるとか、とにかく
『その人の世界には、その人にとって都合の悪いものが一切存在してないんだなぁ。』
って、見るからに判る人が結構います。そして、そういう人たちは
「ワンネス~😌💗」
って話を好みがちだなぁ、と思うんですよね。

前々から何度も書いてきたように、私はそういうキラキラ系スピリチュアルなタイプに強い苦手意識を抱えています。その原因として、
『あー、そうか。この人たち、他者の存在を認めないから嫌いなんだな。』
ってことなんだと、理解できたっていう話です。



他者の[存在を認めない]ことで、自分と異なる意見を認めない、スルーするじゃないですか。そうなると次は、その自分と異なる異見に対して
『それは違うよ、こうだよ。』
と、自分の意見と同じように合わせさせようとしてきます。その体の良い言い訳として、
「私は、(あなたに関心があるからこそ)あなたのためを思って言ってるんだよ?」
と、愛のフリをしてくるんですよね…。

あー、ダメだ😫書いててイライラしてくる(笑)

「いや、だからね、あなたの言う"愛"は、私にとっては愛じゃないから…。」
っていう話が一生通じないっていうことになって、向こうの世界観を押し付けられ続ける羽目になるから、本当に関わらないで欲しい人種ですね。一生頭の中のお花畑で遊んでて欲しい。

この手のタイプって、
『もっと理解を深めたい。』
っていう感覚が備わってないんですよ。【自分の世界観の中に無い物】を積極的に認めようとしないから、自分の世界観の中に既にある話だけで完結しちゃって、世界が広がっていきません。だから、私とは話が合わないというか、私が一方的に話を合わせてるだけ、って感じになりやすいから、話しててモヤモヤしてしまいます。一生頭の中のお花畑で遊んでて欲しい。



これも、別の記事で例えた話ですが、何も見えない位真っ暗闇を歩いていたとしますよね。

遠くに小さな灯りが見えたので、近付いてみると、誰かが灯りを持って歩いていました。とりあえずその人に一緒に歩かせて貰っていると、しばらくして灯りが消えてしまいます。するとまた真っ暗闇に戻ってしまい、お互いの姿すら分からなくなってしまったため、また離れてしまいます。

何とかかんとか探り探り歩いていると、また遠くに小さな灯りが見えたので近付いてみると、次の灯りを持っていた人は
「灯りは自分で灯すことができるんだよ。だけど、途中で消えてしまうんだ。消えたらまた、灯せば良いからね。」
と、灯りの灯し方まで教えてくれた後、また1人でさっさと歩き去って行きました。

そうして教えて貰ったやり方で、やっとこさ灯りを灯してみたり、上手く灯せない時がありながらも、どうにかこうにか歩き続けます。
しばらくして、やけに大きくて明るい光が見え、近付いてみると、そこには沢山の人が集まり、みんなで1つのまとまった灯りを灯していました。どうやらそこのリーダーであろう人が言います。
「真っ暗闇を歩むのは怖いですよね。非常に危険です。さぁ、みんなで一緒にここで灯りを灯しましょう、そうすればみんな、安全です。」

さて皆さん。皆さんならこの後どうしたいですか?

みんなと一緒に灯りを灯して1ヵ所に固まっていますか?

それとも元の通り、自分で灯りを灯したり灯せなかったりしながらも、のんびりつらつら歩き続けたいですか?



私、人生ってこういうものなんだろうな、って感じてるんですよ。一寸先は闇。本っ当に何にも見えない中で、どうにかこうにか目印になるものを頼りに進んでいく感じです。

他人に頼ってるだけでもダメで、時に人生の歩き方を教えてくれる人に出会って、でも最終的に自分の足で進んでいく…みたいな。

最後の「沢山の人が集まって1つの光を灯している」というのは、宗教を揶揄してます。宗教ってこういうことなんだと、私は思ってます。

恐らく、宗教の開祖にあたる人は元々
「灯りは、こうやって灯すんですよ。」
と、灯し方をみんなに説いてくれていたという人が沢山いたはずです。それが、長い年月と共に、
「この場所で灯し続けていれば、不安や危険に襲われることもないのですよ。」
と、人々を閉じ込める形に変わってしまったんじゃないでしょうか。

灯りの灯し方にも色々あって、自分に合うやり方なら何でも良いんだけど、それはあくまで[自分の足元を照らすこと]を目的とするのが本筋なんです。[灯りが灯っている場所にいること]を目的とするのは…逆に見失うものを増やす結果になりかねません。

何て言うか、歩き疲れたら休むのも必要なんですよ。そういう時に、何人もで集まって、まとまった灯りを灯し合うのもまた一興なんじゃないかとは思うんです。ですが、ずっとそこにいて良いのか、また歩き出すか、定期的に選び直すことが大事なんじゃないでしょうか。特定の場所にとどまり続けることは、他人に強要されることでもなければ、一緒に灯すメンバーが毎回同じじゃなくても良いし、常に自分が自由に選択するということを忘れてはいけないんですよね。



「人生って、何も見えなくて、分からなくて、不安ですよね?!こうすれば、安全ですよ!」
などの言葉で安心を与えようとするやり方。これ、逆に不安を増やしてるだけでもありますよね。

「不安ですよね?!」
「気を付けていれば、大丈夫です!」
「さぁ、安全な場所にいましょう!」
って、全部、
「裏を返せば、この世は危険だらけなんですから!」
って言ってるようなものです。

「人生って、何が起こるか分からないから楽しいですよね!色んな物、探して、見付けていきましょう!」

とだけ言われてたら、
『何も見えないこと=不安なこと』
っていう勘違いなんて生まれないじゃないですか。

未知の世界には、危険だけが潜んでる訳じゃない、自分にとってのお宝も隠れてるのに、探しに行こうとさせてくれないのは、それは優しさでも愛でも何でもなくて、

ただの嫌がらせですよ。




これも、色んな記事で触れてる話ですが、不安感が強い人…というか、
『未知の世界は恐ろしい事柄しかない!』
っていう思い込みが強い人は、目の前の他人が変化することにも恐怖を覚えるんですよね。だから、イメチェンしてウキウキな友人に対しても
「前の方が良かったのにー😙」
とか思いやすいし、それを口に出しがちです。芸能人、漫画、長期連載の小説…様々な物・事柄に対して
『自分が抱いてるイメージのままでいてくれないと困る。』
っていう感覚が強いです。恐らく本人は自覚はしてませんが、
『自分のイメージから離れられるのが怖い。』
という無意識が強く働き、転じて、
「何か、変わったから、嫌いになった。」
と腹を立てるのです。

ネットを中心に
「変化したあなたが悪い!」
と、相手を責め立てる人も結構います。ですがこういう場合は、変化した相手が悪いのではなくて、
『あぁ、変化(成長)した相手に"自分が"ついていけないんだな。』
って、自覚することが大事なのです。



「スピリチュアルに生きましょう!」
ということは
「愛を選択しましょう!」
と、ほぼ同義なはずなのですが、スピリチュアルな話が好きな人、スピリチュアルに傾倒しがちな人ほど、
「何か、◇◇さん、変わっちゃって、ショックです😢💔」
の、ようなコメントを書きがちだったり、相手の意志を尊重する気0な人が多いです。

酷い場合だと、
「そうだそうだ!"我ら"ファンへの気遣いを見せろ!」
と、いう風に、ファンという"グループ"として、"大人数"にて個人を責め立てる形で同調する人も湧きます。それはもはやいじめじゃないですか。彼・彼女らにとっては、
「我らに愛を向けてくれなかった発信者への制裁!」
を大義名分に
[自分の心の不調和の原因を発信者に押し付けてるだけ]
でしかないにも拘わらず、発信者を攻撃してる訳です。その勢いの大きさと丁度同じ大きさなのが、彼・彼女らの中にある【自分の目の前の存在の変化への恐怖】ということですね。

こういう風に説明すると、
「『怖い!』って感じてる人を労りなさいよ!」
って、【『怖い!』と思わない人】を労る気0で叫ぶんでしょ、どうせ。知ってるー🙄

「愛😌💗」
「感謝😌💗」
とか言って満足してるようなタイプには、木を見て森を見ずというか、自分自身の非道さが見えてなさ過ぎる人が多いなぁ、と私は感じてるんですよね。マイメロかよ🤣

【恐怖】を感じてるのはあくまであなた個人の問題でしかないし、あまつさえ
『自分は恐怖を感じてるんだなぁ。』
という、自分の意識にすら自覚も持てず、あろうことか無関係な他人に対して
「(この恐怖が湧いたのは)あんたが悪い!何とかしなさいよ!」
って喚き散らしてるだけなんですよ。

↑なんて、ストレートに説明しようものなら
「攻撃されたー!」
「傷付けられたー!」
って、また騒ぐんでしょ?(笑)はいはい、そーやってずーーーっと、私のことを悪者にしてればいーよ。私、結構そんな感じで悪者扱いされてきたケース多いんですよね。初めはさりげなく、遠回しに…って優しい言い方で気遣ってたのに、その部分に対して
『気遣ってくれてるんだな、ありがとう😌💗』
とは一切気付かない癖にさぁ。

『こりゃ、ストレートに言わな分からんな。』
って思ったから私はストレートに表現する流れになっただけなのに、
「責められたー!」
って、怒るんだもん。もう、本当に関わらないで欲しい。関わりたくない。何より、
「じゃあ、住み分ければ良いよね?離れよう◎」
って言っても
「それは違う!」
って、過干渉を続けたがるんでしょ?

三つ子の駄々っ子百までも、じゃん🤣

とりあえず私は、そうやって
「愛」を言い訳に使いながら
わがままを撒き散らして、
【自分の道を堂々と歩み続けてる人】に対して
「変わることを止めなさい!!!」
なんて大声を張り上げる

ような人から、【自分の道を堂々と歩み続けてる人】を護る主張を続けます。

と、言うか、恐らく既に自分の道を堂々と歩んでいる人は援護の必要は無いと思うんですけど、
『これから、自分は我が道を突き進んで行きたいんだけど……どうしたら良いんだろ?』
って、まだ完全には自分の道が見えてない人の援護ができる話をちょいちょい残しておきたいんですよね。上手く伝わるかどうかは、今後私の表現力への精進次第なところもあるから難しいかもしれませんが、私は私と似たような傷付けられ方をした人を養護したい気持ちが強いのです。



スピリチュアルが好きな人が
「天使に守って貰ってる😇」
「妖精さんとお話してさぁ…🧚」
「龍人様からご加護を貰ってて…🐲」
って言ってる声をちょいちょい聞きますが、私についててくれてるのは多分、不動明王なんだよね。たまに烏枢沙摩明王もかもしれないんですけど、何しか背中にでっかい炎背負ってる明王様とエネルギーが繋がりやすいみたいです。

だから魔を焼き祓う性質が強いです。

↑そのせいで怖いと思われたり、悪者にされたり、私が攻撃してるようにしか見られない場面も色々と経験してきた訳です。人間の自分としてはそれもそれで色々悩みもしましたが、
『私は"マイルドな指摘"に適してない宿命を背負ってるんだな。』
って、最近腹を括ってるところがあります。

で、何が言いたいかと言うと、

『「だから、フワフワ、キラキラ系スピリチュアルが好きな人は、私と話合わないと思いますよ😅💦」って1回宣言しときたいなぁ。』
と思ってる

っていう部分ですね。でも、伝え方がよく分かりません。"その人たちのスピリチュアルの世界観"に当てはまってないスピリチュアルの世界の話な訳ですからね。バタフライエフェクトを狙うしかないんじゃないかと思って、こんな風に色々書いてみてます。



話がグルッと遠回りしましたが、
「迷いを持たない。」
ためには、大きく分けると
・そもそも選択をしない
・自信を持って選択する

と、結構両極に分かれるんですよね。

「この場所にいれば安全ですよ。」
「この世界観の中にいれば、何も心配いりませんよ。」
こういう、「選択しなくても良いんだよ。」という形の言葉が、元々は優しさによるものだったとしても、
『不安を感じたくない、だから新しい世界観の中に飛び込みたくない、新しい世界観を認めたくない!』
という不安感の強いタイプに都合良く使われてしまうと、
「あなたはこの世界観の中にさえいれば良いんです。だから、動くんじゃありません!」
って、他人を縛ろうとする力の方が強まるんですよね。私は、こういう部分が毒親を構成してるベースだとも思ってて、そういう意味でも毒親育ちの人が毒親に付けられた足枷をぶった切りやすくなるような話も書けると良いなぁと思ってます。

「迷いを持たずに生きるためには、自信が身に付けば良い!」
という側面もあります。ところが、自分に自信が無いタイプの人間の中にも
「【自信がある人】だけが救われるべきじゃない!だから、「自信さえ身に付ければ何とかなる。」なんて、嘘だ!」
と、頑なに認めなかったり、
「だって、自信なんて身に付けられないもん😢」
といじけたり、自信を身に付けようとする人の足を引っ張ろうとする人も少なくありません。

それでも私は

「誰でも自信を身に付けることはできるし、自信を身に付けるのは簡単なことだし、自信さえ身に付けば迷いは確実に減るよ!」

と、断言します。

ただし、いつも書いてますが[時間はかかる]かもしれません。人それぞれ異なります。

結構前にも自信にまつわる記事を書いてて、どういう視点で捉えるかによって自信の種類や身に付け方の方法も異なるのですが、今日の話のテーマに関連付けて伝えたいのは、

『自分は、自分の意見をちゃんと聞いてくれているんだな。』
と、【自分自身への信頼感】が身に付きさえすれば、自信に繋がる。

という点です。自分が自分を信じるためには、自分で自分を受け止めてあげることが大事だということです。

『自分のことが嫌い。』
とか、
『自分を信用できない。』
っていうあの嫌な感覚の正体も、↑ここを解決すれば解消できます。自分のことが嫌いなのは、自分が自分の言うことを聞いてくれてないから。自分で自分を信用できないのも、自分が自分との約束を破り続けてるからなんです。

とにかくひたすら、自分がやりたいと思うことは早めにやるとか、嫌だと感じたらすぐ止めるとか、自分へのクイックレスポンスは大事にした方が良いですね。そして、自分とした約束は、何が何でも守ることです。例えば
『今日はもう、疲れちゃったから、片付けるのは明日にしよう。』
って、自分と約束したのなら、明日は必ず片付ける…などですね。誰あろう、"自分"との約束は、世界で最も優先順位の高い約束として取り扱うことが大事です。逆説的に、自分が守れそうにない約束やルールを自分に課してしまわないように気を付けることが必要な場合もあります。



私は、
『(毒親育ちなどによって)自分の選択肢や、選択する意欲、行動力、好奇心など、色々なものを奪われ続けてきて、これからどう生きていけば良いのか分からなくなってしまっているけど、何とか自分に力を取り戻したい!』
と、考えている人のことは後押ししたいです。だから、
「自分の知らない世界なんて、怖いんだもん!怖いって思うことが悪いことな訳ないもん!みんな、そのままとどまってるべきなんだもん!」
って駄々捏ねてる人間の大声なんて無視して良いからね👍全力で自分自身の新しい世界を切り拓いて行く方向向いて良いからね✊
と、いう趣旨を伝えているのです。

だから、

「誰の声も聞かずに、"自分の"声にだけ集中すると良いよ👌」

と書いておきます。

「チャネリングした□□の話だと~…。」
「有名な◆◆さんが言うには~…。」
「天使さんは~…。」
の、ような、"天界の存在"経由なんかの言葉もフル無視で良いですからね。天界の存在が上で、自分がそれに従う…んじゃなくて、天界の存在と自分はあくまで対等で、自分の意識の中に混ざっている神様のエッセンスを優先していくのが正解なんです。だから、天界の存在の意見を"優先してる"意見なんて、無視して良いんです。天界の存在に頼ってる状態は自立してるんじゃなくて依存してる状態だから、そういうのを真似したらダメですよ。

何なら、
「毒親育ちを筆頭に、過去に辛い経験をして心を傷付けられてしまった人はスピリチュアルな話になんて耳を傾けない方が良いよ。」
とまで思うところもあります。←こんだけ、スピリチュアルっぽい話を沢山書いてきておいて凄く矛盾する感じなんですが、世の中には【何か(誰か)にすがる系のスピリチュアルな話】が多いじゃないですか。
『これから、自分の足で人生を歩んで行きたいんだ!!!』
って考えてるのであれば、まじでそういう【すがる系の話】は足手まといにしかならないんですよね。

自立するために必要なのは、自分だけなんです。


誰かの話を信じて、結局また自分の人生の舵を奪われるような羽目になってしまったらそっちの方が可哀想だと思うから、
「自分の人生を取り戻したい人は、自分との対話、約束だけに集中する時期は必要ですよ!」
って念押ししておきます。

必要な人に上手く届きますように📨



世の中には、ニュース等をはじめとする、
【人々の不安を煽って迷いを生じさせる話】
がいっぱいあるじゃないですか。でも、全部要らない話なんですよね。情報収集なんて止めても、自分に必要な情報は何かしらの形でやってきます。むしろ、目に入る情報をできるだけシャットアウトした方が逆に、自分にとって必要な情報が何なのか判断しやすくなるものです。目にする情報を減らした方が迷いは減るということですね。

だから、私のブログにしても、読んで不安が大きくなるようなら読むべきではないし、迷いを生んだのならそれはあなたにとって私の話が真実ではないということなのだから、無視するべきです。

「由々しき事態となっております!」
という話に対しても
「由々しき事態なんだってー、怖いねー?」
なんて、噂や不安を増長させる人間になってしまわないように、増長させる人間を増やさないように、気付いた人から自分だけを信じていけるよう、ひっそりと祈っています。



「愛のある選択とは何なのか?」
迷いのない心で選べる人が1人でも多く増えますように。

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