秋にしっくり 食べてほっくり 栗 ヌチグスイ*㉗
食欲の秋が訪れた今、なぜか同時に栗のマーチも我が家にやってきた。離れて暮らす家族から、ご近所の奥さんから、母の親しい友人から。各所からどんどん届く栗たち。
栄養たっぷりで滋養もあるそれらは、少しずつ味わいや大きさが違う品種のようで、日をずらして我が家にやってくる。母が呑気に「秋だねー」と喜んでいる横で、わたくしはこれらを食べられるようにしなければならない、とミッション発動を実感。昨夏は、スイカの行列によって図らずもスイカカットの技術力アップとなった。今秋のテーマは栗の処理力アップなのか?
神様はわたくしの生活スキルの向上をお望み?と勝手に受け止め、「それならありがたく、成長させていただきましょう」と素直に従うことにした。心持を前向きにセットすることで、難敵である沢山の栗たちをストレス少なく片付けられるだろう。さあ、やってみよう!
まずは母の趣味である、ちらし寿司作りのために冷凍保存栗にする。鬼皮も渋皮も剥いて、四つに切り分けてジップロックに入れる。1回のちらし寿司は1升の米で作るので、それなりの量である。日ごろお世話になっている友人やご近所様方にふるまう、自家で用意した蕨やタケノコ、栗をふんだんに入れた贅沢ちらしは大人気で、料理嫌いの母がすすんで作る一点豪華主義メニュー。その2回分ほどを用意する。
次に作るのは、お正月用にこれまた冷凍保存する渋皮煮。これはわたくしの恒例メニューで、オリジナルポイントは、醤油やみりんで調味する甘辛味。立派な大きさのものを15個くらい選んで作る。渋皮を傷つけないように丁寧に剥いていくので、骨が折れる作業である。が、新年のおせちメニューに必須なので、仕方ない。時間が十分にある時に、心を落ち着けて取り組むことにする。
通常はこのあと残った栗で、栗ご飯を1,2回楽しみ、最後は塩茹で後、半分に切りスプーンですくって食べる、というのが恒例である。
が、今年は「マーチ」なので消費が追い付かない。(汗)栗の山をジッと見つめているうちに、唐突に「栗よりうまい十三里」(クリ=九里+ヨリ=四里で十三里←サツマイモ)という焼き芋屋のフレーズが頭に浮かんだ。とほぼ同時に、かつて美味しいサツマイモのポタージュスープをイタ飯屋さんで味わった記憶が蘇ってきた。もしかしたら、栗でも作れるんじゃないの?と我が家のスープメーカーをチラリと見やるわたくし。
案の定、調べてみると、ネットで栗のポタージュスープのレシピが上がっていた。これをさらにラクチンのスープメーカーさんお任せでこしらえる。(牛乳は温めて後から加えた)夕食の贅沢な一品になり、母も大満足だった。「栗の味がするね(^^♪」
これがきっかけとなり、調子に乗って、栗のペーストもミキサーで作り、食パンに塗って食べられるようにした。購入すればかなりお値段の張るものが、材料費はほぼタダである。「食べるものがたくさんあるのは、本当にありがたいね。そして平和が一番。」と、ここ連日、戦争のニュースをテレビで見ている母は、心の底から発する感想をしみじみと呟いた。戦は飢えや恐怖を連れてくる。やはり食べ物はしっかり感謝していただかなくては、と改めて思う今秋。
そして、季節の食材がたくさんあるのなら、分け合えばいいと思いつつ、残念ながら皆さんから「栗はいらない」とはっきりとお断りされる。母のネットワーク内の高齢者は手指の力が弱くなってきているために、栗の皮むきは危険かつ大変なので、避けたい作業なのだという。
勿論、わたくしも数が多い栗たちの皮むきを楽にできないものか?と思い、頼りのユーチューブ先生を探してみた。すると、ご親切で有能な方々が皮むきテクニックの動画を数々アップされていた。泣けるほど感謝感激である。
ところで、栗といえば、このように専ら果実について目が向けられるけれど、木材としての栗の木もなかなかに実力派のようである。なんと、縄文時代から人間の暮らしに大変に役立ってきた、素晴らしく有益な植物なのだ。
栗が神の木として扱われていた、というアイヌの伝聞もさもありなん。あのトゲトゲしている厄介そうなイガでさえ、着火剤として役立つというのだから。
硬くて、渋くて、扱いづらくて、という側面を持ちながらも、一転して、栄養豊富で薬効も期待できる果実が実り、資材としても優れている果樹。一見したのではわからない、たくさんの魅力を隠し持った豊かな存在なのだった。
よく考えれば、これは、何に対面する場合にも言えることなのかもしれない。例えば、対人関係においては、印象や他人の評価で人物を勝手に判断することで、より良いコミュニケーションが阻害されるなど。ちゃんと向き合うことで、相手の人となりを初めて知ることができる。これは、人だけによらず、集団や国についても言えるだろう。
以前、父が日本人、母がスイス人という女性に出会った際に、世界各国を旅した話を聞いた後「そのなかで、どこの国がよかったですか?」と尋ねたら、「どこの国も良い所とそうでない所があるし、其処に住む人も良い人そうでない人がいるから、何処の国がとかないの」と答えてくれた。
そのやりとりは、比較してランクを付けようとする傾向が自分にはあるのだと、自覚させられる良い機会になった。わたくしの中の、ランキング在りきという思い込みと、ランキングしようとするクセを発見できたのだ。これまで普通に新聞などで見かけてきた世界第〇位に慣れ過ぎてしまっていたのだろう。その「普通」に、自分や自分の国がどのレベルに存在するかが重要と思うよう誘導されていたかもしれない。
彼女のいうとおり、何処の国も人も比較できるような単純なものではなく、多面的な要素で構成されているのだ。栗ならぬ「団栗の背比べ」は無意味なものだ。優位に立ちたい気持ちは自然なのかもしれないが、そこから争いが芽吹くかもと用心するのは大切なことだろう。
また、「自分で」良く知って、「自分で」考えた結果をそのままに受け止める、リテラシーも身に着けたい。このきな臭い今の地球で、平和が心底欲しいのなら、そこをしっかりとおさえておきたいと、栗の皮を難儀に剥きながら、わたくしは自戒する。
そうして、懐かしい「大きな栗の木の下で」の日本語の歌詞よろしく、みんなでなかよく輪になって夢を語り合える世界で暮らしたい、と願うのだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。