見出し画像

ゆずにハマる(大学3年秋~大学卒業)

1997年から2000年にかけて音楽業界は変革期を迎えた。

90年代前半から業界のチャートを独占していたTKサウンドから、少しずつニュースターが登場した時期だった。

かくいう私も、ゆずやaikoのオールナイトニッポンをよく聞いていて、おもしろいなぁと思っていた矢先。大学の先輩からゆずのライブに誘われる。

ゆず 体育館ツアー1999 秋(音)楽旅行 2日目 10月16日横浜アリーナ

衝撃を受けた。ラジオで聞いてた同世代、同じような趣味のあんちゃん二人が、ステージに立つと、こんなにかっこよくて、観客を魅了する力に圧倒された。楽しい、うらやましい。が素直な感情だった。次もいきたい欲求が爆発しこのツアーだけで4回くらいいったと思う。

ライブにそんなに行ったことがなく(むしろやるほうだったからw)、ライブ中にみんなで合唱するとか、合いの手入れるとか、そのような一体感を感じるのが、初めてだったのでほんと新鮮で、応援ソングが多かったのも、特に何もしていなかったが、なんか頑張ろうという気持ちにさせてくれた。

コロナ前にも家族でゆずのライブに行ったのだが、客層はすっかりおじさんおばさん、ファミリー層になっていた。私同様、みんな大人になって、なんだかおもしろかった。

アコースティックギターもゆずへの憧れから始めた。むしろゆずの曲しか弾けないw そのくらいハマってしまった。

当時ゆずコピーの路上ライブが各地に出現したのだが、私もその一人だった。ゆずのライブ前に会場で路上ライブやるとゆずっこたちが集まり、ちょっとした人気者感を味わえた。前説気分のゆずっこたちと勘違いできる私。誰も損をしていない。

まだこの頃はSNSがなく、HPや掲示板、チャットがようやくできた時代。ゆずっこたちと交流すべく掲示板やチャットでひたすら会話していたのを覚えている。ゆずっこチャットや掲示板は女子のが多く、これまた下衆な自分がでてきてしまった。地方の中高生、年上のお姉さん、、、いろんなことライブにいったなぁ。。。

大学のサークルでもゆずっこがたくさんいて、みんなでゆずの故郷の、横浜市磯子区岡村町にいったのを覚えている。当時の町はゆずフィーバーでゆずの歌詞にでてくるお店には必ずメッセージノートがおいてあった。今じゃ絶対NGだが、リーダー北川悠仁さんの実家も解放されてメッセージノート、お母さまお姉さまが声をかけてくれた。ゆずを近く感じて親近感がもてた。

大学3年で留年し、2回目でなんとか進級。4年の最後のテストがおわり、しばらくして結果がきた、「再テスト」と書いてある。追試ということだ。当時就職活動もしておらず、卒業しても・・・だったが、無駄な学費を払うくらいならと再テストを受けることにした。

ちなみにこの時は、前回の天才後輩にフラれた直後くらいで結構絶望期だったのを思い出した。フラれた理由は私の下衆、テキトー、慢心だろう。フラれるときはいつだってそうさ。。

2002年3月10日ユズモラスツアー2日目。

翌日に再テストを控えた私は横浜アリーナにいた。ゆずモアというアルバムのツアーで前向きな歌が多かったのもあるが、北川さんがアゲイン2を歌う前に、「明日勝負がある人もがんばろう」とか言うから、ぐっと来たのを覚えているし、

アゲイン2の
「誰もがみんな一人ぼっちを抱きしめながら生きてる。泥だらけの靴だって何度でも歩き出せるさ。人は誰も癒えない痛みを胸の奥に抱えてる。ひび割れてるグラスの中にも希望を注ぎこもう」               七転び八起き的な歌詞に、加えて、「希望を捨てるなよ」って5回くらい言われて自分に言ってるみたいで、えぐいほど高揚した。

アンコール最後のユーモラスという歌では

「ちょっとした勇気でもって、小さな一歩踏み出す力を僕らは持っていて、なんてことないチャンスはいつもありふれた日常に転がってるんだよ」

「ちょっとしたユーモアでもって笑い飛ばしてしまえる強さを僕らはもっていて」

という歌詞で、本当に前向きになれたのを覚えている。この日もたぶん見知らぬゆずっこと行ったのだが、ほんと一人でいった気分。(失礼)

翌日、無事再テスト通過して大学卒業。ゆずありがとう。

ゆずのツアーはこのまま行き続け、10周年を境にしばらく遠ざかり、20周年で奥さんと初めていき、2019年は家族四人でいった。2020年のツアーも当たっていたのだが、コロナで中止涙。家族もすっかりライブにハマったので、これからもゆずにお世話になります。本当に感謝。

2002年はもう一つビッグイベント。サッカーの日韓W杯があった。そこでも高揚し、小さな一歩ということで、この年ギター片手に旅にでることになるのだが、この話はまた次回!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?