新1万円札の渋沢栄一は名大の初代総長の“おじ”だった/大学文書資料室より
2024年7月3日に切り替わった新紙幣、お目にかかりましたか? 新1万円札の肖像に起用されたのが、“近代日本経済の父”と言われる実業家の渋沢栄一(1840~1931)です。その渋沢氏は、名大の初代総長である渋沢元治(もとじ、1876-1975)の“おじさん”だった――という情報を、遅ればせながら名大広報課が入手しましたので紹介させていただきます。
東海国立大学機構 大学文書資料室刊行『ちょっと名大史』No.205「渋沢栄一と名古屋帝国大学初代総長渋沢元治」
(原文ママ)
このたび、近代日本を代表する実業家である渋沢栄一が、新しい一万円札の肖像に選ばれました。この渋沢栄一の甥が、名古屋帝大初代総長の渋沢(正式には澁澤)元治(もとじ)です。元治にとって栄一は、単に伯父というだけではなく、その人生に大きな影響を与えた人でもありました。
栄一は、埼玉県榛沢郡(現深谷市など)有数の豪農渋沢家の長男でしたが、家督を継ぎませんでした。そこで、一族の市郎を栄一の妹 貞(てい)の婿に迎えて渋沢家の当主としました。市郎と貞の長男として生まれたのが元治です。
地元の小学校を卒業した元治は、尋常中学校進学のため上京を望みますが、父 市郎は、豪農であっても農家の跡取りに学問は必要ないと進学に消極的でした。これを説得したのが、栄一と母 貞です。元治はさらに高等学校に進むことを望みますが、これにも市郎は反対しました。この時も栄一・貞 兄妹の口添えがあり、元治は第一高等学校に進学することができました。市郎は、農科を選択することと、大学卒業後は家に戻ることを進学の条件にしましたが、元治は意志を貫き、一高在学中に工科に転科、東京帝国大学では電気工学を専攻しました。
その後も栄一は、大学卒業直後の元治を約1ヵ月の朝鮮旅行に同行させたり、元治に足尾銅山古河鉱業所への就職を斡旋するなど、援助を惜しみませんでした。元治の1902(明治35)年から1906年にかけての欧米留学も、栄一の勧めによるものでした。もっとも、栄一は元治に実業界に入ってほしかったようですが、元治は官僚から学者になる道を選びました。
1929(昭和4)年、元治は世界の電気工学者にとって最高の栄誉と言われたアメリカ電気学会名誉会員に選ばれました。この時、数え90歳の栄一は、来日した同学会前会長らを自邸に招待し(写真)、そこですこぶる上機嫌に40分にも及ぶ挨拶というより演説をしたというエピソードが残っています。
リンク
・東海国立大学機構 大学文書資料室
「ちょっと名大史」(今回の記事はNo.205)