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声をもっと録っておけばよかった
「準備したら、三男を迎えに行ってくるね」
夕方、学校から帰ってきておやつを食べている次男に声を掛けてから洗面所に向かった。化粧を軽く直して、緩くS字に曲がった癖毛にドライヤーをあてる。湿気を含んだ髪はなかなか真っ直ぐにはならず、溜め息が漏れる。
すると、ドライヤーの音に混ざって歌声が聞こえてきた。
「今日だって 笑う笑う…」
リビングでつけっぱなしになっていたスピーカーから流れている曲に合わせて、次男が歌っていた。
「愛をひとつ またねまたね…」
掠れた声。
ドライヤーを終えても、歌声は続いていた。私はもう一度、ファンデーションの蓋を開けて、次男の声を聴いた。
次男はよく歌う子だった。
小学校低学年の頃は、風に乗って聞こえる歌声で帰ってきたと分かったし、風呂ではいつも大きな声で歌っていた。
正直、上手いとは言えない。むしろ音痴だ。それでも気持ち良さそうに歌う声は、こちらを笑顔にさせてくれた。
年齢が上がるにつれて音程も音量も安定してきた。随分と上手くなったなぁと思っていた矢先、パタリと歌わなくなった。
中学生になっていた。
思春期で歌うことが恥ずかしくなったのかもしれない。でも、それ以上に声が出なくなったのだと思った。
次男の綺麗な声を思い出してみる。
倉木麻衣の『渡月橋 〜君 想ふ〜』を歌っていたのはいつだったかな。
あの声、好きだったのにな。
でも、次男の綺麗な声は私の記憶から甦らない。
『あの声』はもう二度と聴けない。
声をもっと録っておけばよかった。
今になって、そう思う。
「優しい日々の横で笑うように 嗚呼…」
低く掠れた声で歌う次男は、気持ち良さそうだった。
私は歌が終わるまで、洗面所で過ごした。