見出し画像

主語がデカくてもいい!

主語がでかいのは良くない!という言説が流行り出してからそれなりの時間が経ったと思います。

最初は、男なら女ならこうあるべきだ、という考えを否定することをきっかけに始まった気がします。

当時は自分も、大きな主語を押し付けられることに嫌な感情を覚えていました。

でも今は違います。いや、違くはないんですが昔よりもより詳細に理解できていると思います。

結論としては、主語はデカくてもいい!ということです。ただし、条件が必要ですが。

答えを定義することに関して書いたnoteがあるので気が向いたら読んでみてください。

でも気が向いたらで大丈夫です。
今ここで大切なことは、答えを決めるには条件や基準の設定が必要だということだけだからです。

では、今ここで議論している言説で答えを出すために必要な具体的な条件はなんなのかというと

デカい話にはデカい主語を使ってもいい
ということです。

例えば、統計的に日本の男性は日本の女性よりも身長が高いとか。
これは、数字のデータがあるので正しいことだとわかりやすいと思います。

でも、逆を言うと
小さい話にはデカい主語を使ってはいけない
ということがあります。

例えば、日本の男性の平均身長よりも高い身長を持つ日本の女性にそれはおかしい!と主張することがおかしいことだということです。

実際に、その女性は日本に存在しているからです。

例では、分かりやすく目に見えて数字にできてデータで根拠をとれるものをあげましたが、抽象的なものならどうでしょう。

ある女性に対して、女性は協調性が高いからこの人も協調性が高いはずだと決めつけるということがあるとします。

協調性が高そうだと推測することは、抽象的で、もっとデカい話に近づくことなので、決めつける、決定するということとはここでは分けます。

また、何をもって協調性が高いとするのか、本当に女性は協調性が高いのかという前提の真偽の問題もありますが、一旦正しいと仮定します。

しかし、おおむねそうだとしても全てがそうではありません。もちろん協調性の低い女性もいるし、もちろんそれは悪いことではありません。

なのに、個人に全体のイメージを押し付けることは事実と認識のズレがあるので正しいことではありません。

これが、小さいことにデカい話を持ってきてしまう失敗例です。

別のパターンもあります。
それは小さい話を使う場合です。

ひとつは、
小さいことに小さい話を使うことです。

例えば、ある優しい女性がいたとして、その女性は優しい人だとイメージすることです。

頭痛が痛くなるほど、この言説は正しいことだとわかりやすいと思います。

逆にデカいことに小さい話を使うことがあります。

これは間違いであるリスクが高いです。

例えば、ある優しい女性がいたとき、女性はおおむね優しいとすることです。

たまたまその人が優しいだけで、残りのすべての女性が優しくないこともあるわけです。

たったひとつのデータで、脆弱でない統計を作ることは難しいでしょう。

少し話はそれますが、
主語のデカい人の話は聞かなくていい
と言っている人をあるメディアで見たことがあります。

しかしこの言説は、
主語のデカい人の話は聞かなくていいと主張しているのに、この言説自体の主語も、主語のデカい人というデカい主語になっているので、

主語のデカい人の話は聞かなくていい、という話の主語も、主語のデカい人というデカい主語だから聞かなくていい。という論理的矛盾を含んでいます。

すべてや絶対が成立することが難しいことから分かるように、ある言説も全面的に間違っている場合は少なく、結局は条件次第だということです。

以上から、結論は
デカい話ならデカいことに、小さい話なら小さいことに使う場合は、デカい話をしてもいい、主語がデカくてもいいということです。

もっとまとめると
マクロの話なのかミクロの話なのか気をつけよう
ということです。

主語がデカくてもいいときもあるし、よくないときもある

ここまでくるとあたりまえのことだと感じますが、流行っている風潮を否定してあたりまえに気づくことは難しいことだと思います。

だからこそ、せっかく思いついたことは共有していきたいと思うし、いつかこの考えがひっくり返されることを楽しみにしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?