「正解なんてないもんな」
何かを相談したときやこじらせがちな自分が意見
を伝えたときにそう言ってくれる友だちがいる。
しかし、口では人それぞれだと言っていても本心
からそう思えていない人もいる。
正解なんてないと思えている人と関わる方が自分としては圧倒的に関わりやすくその友だちは信頼している。
でも、その言葉に対する「それは、正解という言葉自体をどう定義するかによるけどね」という自分の意見はいつも言わずに飲み込んでいる。
友だちは、例えば人生のような複雑な物事において、どんなときでも誰にでも当てはまるような普遍的な解は存在しないと考えるのが妥当だという意味でこの言葉を使っていると思う。
でも正解って言葉はもっと詳しく分けれるんじゃないかと思う。
もし、ある特定の人のある特定の状況で取りうるいくつかの選択肢たちを正解だと定義するなら、正解はあると言えるし、ある基準を作ってそれを超えるかどうかで検討したら、そのときもまた正解はあるはずだ。
だから、正解があるかどうかを考えるときは、条件を絞ったり基準と比較する必要があると思う。
前述した、「それは正解という言葉自体をどう定義するかによる」とは私にとってそういう意味だ。
その友だちはレトリックを含め「絶対は絶対に無い!」と言ったりもする。その友だちの絶対を押し付けてこない距離感も居心地がいいのだが、ひねくれがちな私は、「絶対は絶対に無いということもまた絶対では無い」と考えてしまうのだ。
だって「正解なんて無いというのも1つの正解じゃないか」なんてことを考えてしまう人間なのだから。
でも現実でこんなことは口にして伝えはしない。なぜなら、本当に大事なのは文章における論理的矛盾ではなく、人に向けられた優しさとその人の伝えたいことだからだ。