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なぜ運動は脳を変えるのか?:進化と科学の視点から考察してみる

はじめに
動物と植物は、進化の過程でそれぞれ全く異なる生存戦略を取ってきました(1)。植物は固定された場所で資源を最大限に活用する戦略を、動物は資源(食物)を獲得するために「動き回る」という戦略を採用しています。その結果、動物は周囲の環境情報をリアルタイムで知覚・処理し、効率良く餌を探したり危険から逃れたりするために必要な脳や神経系を発達させました(2)。とりわけ、より高次の動物になると、脳は単なる運動制御を超え、学習・記憶、コミュニケーション、社会的行動など高度な機能を担うようになったのです。しかし、その根底には、生存のために「運動を制御する」という基本的な役割が存在しています(3)。こうした進化的背景を考えると、運動が脳機能に深く関わり、運動そのものが脳にポジティブな影響を与えるのは自然なことだと言えます。本記事では、最新の科学的知見を踏まえ、運動が脳の機能や構造に与える影響や、精神疾患の治療への応用について解説します。


運動が脳に与える影響
運動は、脳に生理学的・構造的・機能的な変化を引き起こします(4-6)。運動をすることで短期的には神経伝達物質やホルモンの分泌量が変化し、長期的には脳構造や脳内ネットワークの効率が改善されることが分かっています。


  1. 神経生理学的変化

1-1. BDNF(脳由来神経栄養因子)の分泌促進
BDNFは神経新生やシナプス可塑性を促進する重要なタンパク質で、特に記憶や学習に深く関与します。若年成人や思春期の被験者を対象とした研究では、有酸素運動によってBDNF濃度が短時間で増加することが確認されており、特に中強度以上の運動で顕著です(4, 5)。さらに、高齢者においても運動はBDNFの分泌を促進することが確認されており、これが加齢に伴う認知機能の低下を抑える助けとなる可能性があります。この分泌促進は、年齢を問わず学習や記憶の基盤を支え、運動習慣が認知機能の維持や向上に寄与する可能性を示唆されています。

1-2. 神経伝達物質の調整
運動後には、神経伝達物質であるセロトニン(気分の安定やストレス軽減)、ドーパミン(モチベーションや学習意欲の向上)、ノルアドレナリン(注意力向上や覚醒を促す)の濃度が上昇することが研究で示されています。このような変化は、気分の改善、注意力の向上、さらには学習意欲やモチベーションの向上に寄与します(4)。


2.構造的変化

2-1. 海馬の体積増加
海馬は記憶や学習において中心的な役割を果たす脳領域であり、特に若年層ではその可塑性が高いことが知られています。定期的な有酸素運動を行うことで、海馬の体積が増加し、神経細胞の生存率や新生が向上することが観察されています(4,5)。これらの構造的変化は、記憶形成の効率を高めるだけでなく、学習能力の向上を支える基盤として機能します。

さらに、加齢に伴う海馬の萎縮を予防する効果も期待されており、継続的な身体活動が脳の健康維持に重要であることが示唆されています。


2-2. 前頭前野の厚み・灰白質密度の維持・増加

前頭前野は、意思決定、計画立案、注意制御などの実行機能を担う重要な領域です。中強度以上の運動を週に数回継続することで、この領域の灰白質密度が高まり、高度な認知機能の改善が示唆されています(4,6)。特に若年層では発達途中にあるため運動の効果を受けやすく、また加齢に伴う灰白質の減少を抑制する効果も確認されています。

運動によるこれらの効果は、日常生活や職場における実行機能の向上に寄与するだけでなく、認知症予防や高齢者の認知機能維持にも重要な役割を果たすと考えられます。


2-3. 白質の改善

白質は脳全体に分布し、海馬や前頭前野などの灰白質領域を結びつけ、情報伝達の「通信網」として機能します(4,6)。有酸素運動は、白質を構成する神経線維を覆う「ミエリン鞘」の形成や強化を促進します。このミエリン鞘は、神経信号の漏れを防ぎ、信号の伝達を加速させる働きを持っています。運動によってこのプロセスが活性化され、情報伝達の速度と正確性が向上することが示されています。

若年者では、運動による白質の改善が学習能力や作業効率の向上に寄与します。一方、中高年者では、白質の劣化を防ぐことで注意力や認知機能の維持に貢献します。このように、白質の健康は脳全体の効率的な情報処理を支える基盤であり、運動がその維持に重要な役割を果たします。


3. 機能的変化

3-1. デフォルトモードネットワーク(DMN)の調整
DMNは、安静時や内省的な状態で主に活動する脳内ネットワークであり、過剰な活性化は反すう思考や集中力の低下を引き起こします。機能的MRI(fMRI)研究では、運動習慣がDMNの結合パターンを適切に調整し、不必要な内省的活動を抑制することで、注意力や作業効率の向上に寄与することが示されています(4-6)。さらに、この調整効果はストレス軽減や感情調整の改善にも関与し、日常生活におけるメンタルヘルス向上に役立つ可能性が示されています。


3-2. セントラルエグゼクティブネットワーク(CEN)の活性化
CENは、意思決定、タスク管理、注意制御といった実行機能を担う重要なネットワークです。主に前頭前野と頭頂葉で構成されており、中強度以上の運動がCENの活性を高めることが明らかになっています(4-6)。短期的には、タスク切り替え能力や抑制制御能力の向上が期待され、長期的には運動の継続がCENの結合を強化し、職場や日常生活における認知的パフォーマンスを向上させる可能性が示唆されています。


3-3. サリエンスネットワーク(SN)の効率改善
SNは、DMNとCENの切り替えを調整し、重要な刺激や状況に迅速に対応する役割を果たします。主に前帯状皮質と前頭島を中心に構成され、情動や注意、ストレス反応に深く関与するネットワークです。運動はSNの効率を改善し、感情的刺激への過剰反応を抑えることで、冷静な判断や柔軟な行動を促します(4-6)。また、SNの適切な調整によってDMNの過剰活動が抑制され、CENの活性化が促進されるため、これらのネットワーク間のバランス維持において運動が重要な役割を果たします。


4.精神的・認知的影響
運動は、神経伝達物質(セロトニン、ドーパミンなど)の分泌を促進し、気分改善やストレス軽減に寄与します(4-6)。また、注意力や記憶力の向上を通じて、学業成績や日常生活の効率を高める効果も報告されています。これらの効果は、若年層だけでなく、高齢者にも恩恵をもたらします。


5.精神疾患への治療・予防効果
運動は、うつ病や不安障害、認知症の治療および予防においても、多くの研究でその効果が裏付けられています(4-6)。特に、脳内ネットワーク(デフォルトモードネットワーク〈DMN〉、セントラルエグゼクティブネットワーク〈CEN〉、サリエンスネットワーク〈SN〉)の調整やストレスホルモン(コルチゾール)の抑制を通じて、症状を軽減し、再発リスクを低下させることが明らかになっています。これらの知見は、運動が精神疾患の治療における有力な補完療法となる可能性を示しています。


6.運動不足が脳や体に与える影響
運動不足や長時間の座位行動は、心血管疾患、糖尿病、認知症などのリスクを高めることが広く知られています。加えて、脳血流の低下や脳内ネットワークの非効率化を招き、認知機能や記憶力の低下、精神的健康への悪影響が報告されています(7)。具体的には、長時間の座位行動が海馬の萎縮や実行機能の低下に関連する可能性が示唆されています。一方で、短時間でも適切な運動を取り入れることで、これらのリスクを軽減できることが研究によって明らかにされています。


おわりに

運動は、私たちの脳や体の健康を支える基盤となる生命活動です。進化の過程で「動くこと」が動物の生存戦略として採用されてきた背景を考えると、それが脳機能に多彩な効果をもたらす理由は自然に理解できます。最新の研究は、運動が脳の構造を改善し、認知機能を向上させるだけでなく、精神疾患の予防や治療にも有効であることを示しています。

日常生活を科学的視点から見直し、運動がもたらす記憶力や注意力の向上、ストレス軽減などの効果を理解することで、身体を動かすことの重要性を再認識できるでしょう。本記事が、皆様に運動を日常に取り入れていただくきっかけとなれば幸いです。


参考文献
1. (a)Maynard Smith, J., & Price, G. R. (1973). The logic of animal conflict. Nature, 246(5427), 15–18.(b)Maynard Smith, J. (1982). Evolution and the Theory of Games. Cambridge University Press.

2 .Clark, A. (1997). Being There: Putting Brain, Body, and World Together Again. MIT Press.

3. (a)Wolpert, D. M., Diedrichsen, J., & Flanagan, J. R. (2011). “Principles of sensorimotor learning.” Nature Reviews Neuroscience, 12(12), 739–751.(b) Daniel Wolpert, TED Talk: “The Real Reason for Brains” https://www.ted.com/speakers/daniel_wolpert

4.Stillman, C. M., Esteban-Cornejo, I., Brown, B., Bender, C. M., & Erickson, K. I. (2020). Effects of exercise on brain and cognition across age groups and health states. Trends in Neurosciences, 43(7), 533–543.

5 .Erickson K.I., Donofry S.D., Sewell K.R., Brown B.M., Stillman C.M. (2022)Cognitive Aging and the Promise of Physical Activity. Annu Rev Clin Psychol., 18, 417-442.

6.Boa Sorte Silva, N. C., Barha, C. K., Erickson, K. I., Kramer, A. F., & Liu-Ambrose, T. (2024). Physical exercise, cognition, and brain health in aging. Trends in Neurosciences, 47(6), 402–417. 

7.Maasakkers, C. M., et. al. (2022). Sedentary behaviour and brain health in middle-aged and older adults: A systematic review. Neuroscience and Biobehavioral Reviews, 140, 104802.




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