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怪我の巧妙


『おやすみなさい、一倉さん♡』
『うん、また明日。おやすみ』

他愛のないどこかのカップルの会話なら
とても微笑ましい2行であるが、
これはそうではなく、絶対にバレてはいけない、俺と後輩との秘密の2行だ。

メッセージアプリを閉じ、電源ボタンを1push。
落としてバキバキになった携帯の画面は暗くなり、俺はそれを充電コードに差す。
リップを塗って、口を保湿して寝る。
これが俺の日課。

「ん?もう寝るの?」
「あぁ、今日はもう眠いんだ。おやすみ」
「わかったー。私はもう少しゲームしてから寝るね」

俺は、結婚2年目嫁持ち♂、同棲中。
俺の嫁、美保は可愛くて料理もできて最高の女。
俺なんかには勿体ないくらい最高の女。
ただちょっと、嫉妬深いというか、他の女の影が見えようもんなら恐いというか、そこだけが玉にキズだと俺は思ってる。

つまり、最初の2行が嫁にバレたら
俺はジ・エンドなわけで。

自分でも不倫なんて馬鹿げてると思ってるんだが、どうにも止められない。
付き合っている当初から、浮気を繰り返してきた。
その度に美保には殺されかけた。それは事実。
でも、俺には俺の青春があって、俺だってモテたら嬉しい。
だから頼られたら嬉しくなって……。
はぁ。

ちなみに結婚してからはこれが初めて。
浮気ではなく不倫デビュー。
なんて華々しくないデビューだろうか。

結婚したら変われると思っていた。
でも俺は変われなかったクズ野郎だ。
…って分かってはいるけどこの関係を無くしたくない。

俺は美保より先に寝る。
美保がいるリビングに携帯を置いたまま寝室に行くのは、俺は信頼出来るだろ?という俺の意思表示。
1歩間違えたら即バレる、ある意味スリルでもある。
でも美保に限ってそれは無い。
あいつは、俺が浮気の兆候を見せない限り、1mmも疑うことはしないのだ。
だから俺は、今の後輩との関係を1年は続けられている。
そうして俺は眠りにつく。

翌日。また会社へ行く。
仕事をしているのはしんどいが、可愛い後輩からのメッセージと時折のアイコンタクトで元気が出る。
美保に『今日遅くなる、残業しろって言われた。すまん!』とメッセージを入れる。
もちろん、残業なんて無いんだが。

昼休憩。
ポケットにリップが無いことに気付く。
しまった、昨日塗った時に戻し忘れたか。
唇に潤いが無いのは嫌なので、会社の下のコンビニでミントのリップを買う。
無駄な買い物だが、会社用と自宅用にすればいいか。
俺はリップをデスクに置いた。

待ちに待った、夜。
テキトーに飯を食って、テキトーなホテルで後輩と。
時間はかけず、夜10時には家に帰宅。
リアルな時間の方が、バレるリスクも少ない。

「ただいま」
「おかえり!今日リップ忘れたでしょ。大丈夫だった?」
美保がリップを持ってくる。
「あー、新しいの買った。それで、会社用と自宅用に分けようと思って」
「確かに、それがいいかもね!あ、ご飯は食べた?」
「あぁ、食べてきた」
「そう!わかった!シャワー浴びるなら浴びちゃいな~」
美保はキッチンに戻る。
玉ねぎを切っているところだったようだ。
恐らく明日の弁当の仕込みだろう。

俺はリビングに行き、スーツを掛け、荷物と携帯を机に置いてリップだけ持ち、シャワーへ。
やっぱりこの時間がたまらなく気持ちいい。
1日の汗が全て俺から落ちる瞬間。
自分の嫌なところ全てを洗い流してくれるようだ。

シャワーから出て、タオルが無いことに気づく。
「ごめん美保!タオルがない!」
少し大きな声で、キッチンにいるであろう美保を呼ぶと、
「はーい!ちょっとまってて!」
少し大きな声が返ってきて、美保がバスタオルを持ってくる。
タオルに少し、血が着いていた。
「美保、怪我した?」
「あ、そうなの。さっき、ちょっとミスっちゃって」
「玉ねぎか…気をつけてよ」
「ありがとう」
美保はキッチンへ戻る。

ちょっと唇がカサついていたのでリップを開けて、俺はギョッとする。
縁に、うっすらとオレンジが付着している。

……そういえば、昨日、後輩にリップを貸した。

美保は、リップを触っている。
気付いているのか?
でも気付いていたら真っ先に言うはずだ。
美保はそういうやつだ。
念の為、メッセージアプリのトーク履歴を全て消そう。
通話履歴もだ。
あー!なぜ昨日の夜、オレンジに気付かなかった、俺!
いや、落ち着け、冷静を装えば大丈夫だ。
バレていたらもっと早くから大喧嘩になっている。いつもそうだった。
携帯を見られる前に気付いて良かった。

俺は着替えて、リビングの携帯を手に取る。
美保はキッチンで料理を続けている。
セーフだ。本当に良かった。

俺はメッセージアプリのトークを開く。
全削除しますか?の問いにはい、と答える。
削除中の文字の下にうっすら見える、過去のトークたち。
一旦さよなら…俺の思い出
俺は心でそう呟く。

ん??
最後のメッセージ、これ俺読んでないぞ?
『今日はありがとうございました♡また明日も会えるの楽しみ♡』
横には既読の文字。
間違えて開いてしまったのか?
そう思っているうちにメッセージは消えた。

何はともあれ安心だ、とアプリをスワイプした時に、割れた画面で指を切った。

「痛って…!もうやっぱ買い替えなきゃダメだな…。美保、絆創膏どこに…」

呼んでから気付く。
帰って直ぐにリップを持ってきた美保、俺がシャワーを浴びている間に指を怪我していた美保、
そして、何故か既読になっているメッセージ、
画面の破片で指を怪我した俺。

無言の2人の間に、響く時計と包丁の音。

どうやら、変わっていなかったのは俺だけで、
嫁は、付き合っていた時とは変わったらしい。

俺は、死を覚悟した。

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