2023/01/14 お買い物は応援歌
普段から買い物をします。買い物なくしては生きられない現代。大小含めて、生涯に何回買い物をして、いくら使うのかと考えると恐ろしいですね。
食品もそう。カフェやディナーもそう。ショッピング自体が娯楽と化して、久しくなりました。どこでもお金を払います。身銭を切るわけだ。それが娯楽の本懐です。欲しいや必要やその理由は様々ですが、どちらにしてもお金が出ていく。稼いだ金が自分の手を離れていく。
こだわりが強い僕は、この買い物でも欲と理性を喧嘩させ、買うも買わないも理性に饒舌に語らせるわけです。僕の買い物に対する、偏屈なこだわりを聞いてください。
娯楽としての買い物は自分を満たして、気持ちよくするものです。けど、身銭を切るわけですし、お金には限りもある。貴重な時間を使って提供した労働力の対価なのです。お金の無駄遣いは、僕にとっては自傷行為と同義で、自分をいじめていること他なりません。
では、そのお金を大切に使いたい。楽しみつつ、気持ちよくしつつ、一時の、持続しない快楽には極力使いたくない。お金で時間を買うような感覚で、長く使えるものや、活かせるものに使いたい。そんな風に思うわけです。そこで、考えたところ、人の為にお金を使おうと思いました。
タイトル通り、お買い物は他人への応援の役割があると考えています。自分が渡したお金は、他人の収入です。他人の労働力の対価と化けます。僕を中心にだけ見てはいけない。少し視点を変えるとそうなりますね。(当たり前を言ってますよ?言語化、大事。)
であれば、どうせなら、自分が好きなもの、好きなところ、好きな人の元に、少しでもお金が集まって欲しいもの。そこで買い物には妥協できないのです。この妥協とは、自分の周りを満たすこともそうですが、この人に潤ってほしい、という願いもあります。大袈裟に言えば、この人には自分の一部を渡したいと思えるかは大切にしています。
逆の例もあります。こいつにお金を渡したくないハナシ。昔、気に入った古着を見つけました。たしか、柄シャツ。普段は買わないから、思い切って挑戦しようと思ったものの、その時対応してくれた店員さんの態度がどうも気に入らなかった。小馬鹿にされているようだった。サイズがあってなくても、適当に打つ相槌にも腹が立つ。だから、萎えてしまったのです。「こいつに自分のお金が渡るのは気に入らないなあ。」そう思ってしまいました。
他人も巻き込んでお金を考えると、かえって気持ちが軽くなります。つまり、自分を満たしきれない時は、自分の好きな人に視点を向けるとまた違った考え方に気づきます。自分の状況に関わらず、他人に目を向けた方がむしろ気楽になることが増えました。綺麗事に聞こえますよね。はい、綺麗事です。いつもこんな気持ちにもなれません。
ただ、凝り固まっては確実に状況はよくならない。だから、図太く、泥臭く生きる為には、時に綺麗事も糧になるものです。
もう少し違う視点で、買い物を語ってみようかな。頭が疲れたのでこの辺で。