フランクルの『夜と霧』で考える「私たちを分ける二つの二つ」
アウシュヴィッツなどの強制収容所を生き延びて、解放後に『夜と霧』という本を著した心理学者のヴィクトール・フランクルは、この本の中で、興味深いことを書いています。
強制収容所に収容された被収容者(ユダヤ人や共産主義者たちなど)に対して、監視者が親切にする者もいたことも事実でした。
これに対してフランクルは人間を悪魔と天使という二極化することは不可能であるし適切でないとしました。
さらにフランクルはあえて、カッコ付きで、Rasse(人種あるいは種族)という言葉を使い、人間は二つのRasseに分けられると書いています。
つまり、Der anständigen Menschen(品行方正できちんとした人間)とDer unanständigen Menschen(いかがわしく、卑小な人間)の二つに分かれるのだというのです。
あえて、フランクルがRasseという「人種」を意味するドイツ語を使ったのは、アウシュヴィッツやガス室を作ったナチスの人びとが、例えば白人、黒人とかいったレベルの「人種」観で分類して差別することを否定して、あえて別の差別化を考えたからでしょう。
ナチスの虐待する側の人間の中にもきちんとした人間もいれば、いかがわしい人間もいて、二つに分けられる。虐待される犠牲者の人間の中も同様であるというのです。
この二つの間で、人間は純血種集団など存在し得ずあり得ないと説きます。
ちょっと乱暴に例えるなら、雑種犬と血統書付きの犬で分けることなどありえず、犬は悪い性格の犬と良い性格の犬の二つに分けられて、雑種犬であろうと血統書付きの犬であろうと、関係なくこの性質の違いで分けられるのだということです。
フランクルの強制収容所という異常な生死を分ける世界でのこの発見は最も重要であったと思います。
精神科医のジークムント・フロイトは、人間の心には善の欲動と悪の欲動が等しく備わっていると、説いています。その二つの欲動がせめぎ合って、どちらに傾くかで決定されるのだと。
フランクルも同様のことを書いています。人間は善と悪から出来ている合金であると。
合金のなかで、どこに裂け目を決定するかで、人間はどちらかの「Raase」に分けられるのだと。
われわれは混じりっ気なしの金属ではありません。善と悪という二つの分子からできた合金です。その配合によって、良い人間という「人種」か、悪い人間である「人種」の二つに分けられるということです。
どちらにも完全に「純血種」になり得ない。
完全な悪魔も、完全な天使もいない。
それが人間であるとフランクルは言っているのでしょう。
ならば、どちらの「Rasse」になるかは、わたしたち自身が選択できるし、ひどく誰かから裏切られたり、ひどい目に遭わされても、それは悪でも善でもない、その人がそのように選択した一つの心の状況の選択だったとも理解できるでしょう。
そう考えれば、赦すことだって出来るかもしれません。
私たちが二つのうちのどちらを重きに置くかで、相手を幸せにできたりするのですね。
そのまた逆もあるということです。
ここ二ヶ月、ぼくは、ある「悪意」に苦しめられて、それをどう考えていいのか苦しんでいました。
たまたま、仕事で『夜と霧』を読み直して、あらためて答えにたどり着いたように思います。
二つの二つ
ここで、何を望むのも、あなた次第です。
ぼくもそれを考えながら、また、しっかりと生きてゆきたいと考えています🌷