『とむらい師たち』の戦争と死
⚫︎『とむらい師たち』の戦争と死
『とむらい師たち』1968年
監督:三隅研次
原作:野坂昭如
脚本:藤本義一
出演:勝新太郎
伊藤雄之助
藤村有弘
藤岡琢也
⚠️ネタバレ満載です。ご容赦ください!
まず最初にこの映画は戦争映画であると断言させていただきたい。
それは、どうしてなのか……
「葬儀」に「死への畏敬の念」を演出する理想を持った勝新太郎演じる「とむらい師」の主人公「ガンめん」が、同志を集めて新しい葬儀の形を広めようとする。それはやがて葬祭のエンタメ化につながり、企業化され、葬儀は大量消費の合理化へと向かってしまうというのがまずこの映画の物語だ。
こう書くと面白くもなんともないのだが、葬儀そのものが「受注」を競う企業対立があくせくする中で、主人公は葬儀に「美学」や「思想」らしきものを追求したいと躍起になるというところがまず興味深い。
そもそも、葬儀なんてものは死んでこの世にいなくなった人にとっては、見ることも感じることもできない儀式である。
そこに美学や思想や理想を持ち込もうとするガンめんは「死者のことを考えてのことである」をまず前提としているのだけれど、結局はぐるっと回って生きている者のためになる。
つまり、死者にとっては死んだ後の葬儀など実際はどうでも良い存在であるからだ。そして、物言わぬ死者を前にした生ける者の解釈次第で、人間の死はいかようにも解釈が成りたち、いかようにも変化するものだ。
まずここが重要なポイントだろう。
この映画には戦争が深く関わっている。
美容整形をしている「先生」に出会ったガンめんは死者の死化粧を医学で科学的に演出することを思いつき、「先生」をひきいれる。
葬儀の一仕事の後、ガンめんと先生との対話がある。
ガンめん「先生、軍隊の経験あるんですか?」
先生「ガダルカナル……」
ガンめん「よう生きて帰ってきましたな」
先生「ようけ人殺しました。戦友もたくさん死んだ。いろんなもん食べましたよ」
ガンめん「苦労しはったんですな」
先生「生きながらの地獄とはあのことです。死顔美容をすることになったのも、その因縁ですかね」
まずここで、ガンめんは戦死者の死についての問題に出くわす。そして、新式葬儀のプランとして、生前から葬儀を準備しておく葬儀プランの売り込みを始める。
そのセールスの一環で訪れた会社の社長は、戦争中の体験から「屍衛兵」(しかばねえいへい)式の葬儀を希望する。「屍衛兵」がわからないガンめんに社長は戦時のことを思い出しながら説明する。
社長 「みんな死によったなあ、無茶苦茶に死によった。惨たらしいもんやった。敵も味方もなかったわ。目玉は溶けとるわ、ウジが湧いとるわ。誰でもな、死ぬのが平気ちゅうのはあらへん。ほら怖いわ。つまり、戦地で戦死者が出るわね。戦友がこれを担架に乗せて後送する。それで部落の一軒屋に安置する。坊主もおらんよ。御灯明もなしだよ。あると言ったら君、タバコか野に咲く花二、三本。これをゴム引きの天幕をかぶせた亡き骸にのせる。それを守るのが屍衛兵だよ」
ガンめん 「ジーンときますわ、その話。ええ話ですわ」
社長 「ざーっと風が吹く、野の花がゆれとる……そこにはねえ、人間の死に相応しい何ものかがあった。けど、夏はねえ、臭うてたまらん……」
そして、その戦争での死の話から、ガンめんは自然死よりも強制死に興味を抱くようになる。強制的に妊娠中絶で命を落とした「水子」供養のイベントを思いつくがこの開催は成功しない。
そのうち、ガンめんの理想に共鳴して集まってきていた仲間たちは、葬儀をもっと大量にこなして、大量にさばく合理化を考え始める。もちろんその方が利益が上がるからである。
精神性を尊ぼうとするガンめんは、その仲間たちの方針に嫌気がさし去ってゆく。
1970年開催予定の大阪万国博覧会の建設予定地を見たガンめんは、万博よりも先に葬儀博覧会を開催したいと考える。
建設に着手しようと奔走するが、一切、投資する者もおらず、協力しようとする者もいない。
葬儀博覧会、略して「葬博」の売り込みに、ガンめんは再び戦争を考える。
おどろおどろしい戦死者たちの絵を博覧会のメインに据えて人びとに見せることによって、死者の慰霊と未来に起こるかもしれない核戦争の抑止になるのではないかという理想へ結びつけてゆく。
そして、学校を訪れて教頭先生に「葬博」を売り込もうとする。
教頭「第一、そんな見せ物がですね、児童の非核教材として役立ちますかね」
ガンめん「単なる見せもんとは違います。世界平和いくら口で言うてもわかるもんやおまへん。それよりも戦災の悲惨な状況、戦場の惨たらしさ、それを絵で見せて子供たちに訴えたいんですわ」
教頭「今の子どもは、そんなん見たがりませんね」
ガンめん「見たがるかどうか、いっぺん試してみんとわからんのと違いますか?」
教頭「あんた! 常識で考えてくださいよ! 学校にはPTAというものがあるんですよ。そんなもん見せると何を言われるかわかりませんよ」
学校への平和教育がらみで「葬博」の売り込みに失敗したガンめんは、村長に売り込みにゆくが、村長は相手にしようとはしない。
ガンめん「あの……戦没者の霊を慰めたいんですわ。村長さんの布令さえあれば農家の方々も来てくれはると思います」
村長「いまさら戦没者やなんて、ピンと来んな。骨折り損と違いますか?」
ガンめん「それを思い出してもろうて、戦争で死んだ人の霊を慰めたいんですわ」
村長「戦争はみんなが忘れようと思うてます」
ガンめん「それ、忘れたらあきまへん。将来戦争が起きないためにも霊を慰めるんです。うっかり忘れてると、いつ水爆が落ちるかわかりまへんで」
村長「そんなこと心配してたらキリがない。アメリカもソ連も水爆落としたら損やっちゅうこと知っておるわい。広島の原爆はTNT火薬二万トンの威力や。ビキニの水爆でも二〇メガトン、つまり千倍の威力や。富士山のてっぺんで爆発したら、たった一発で北は北海道から南は九州の端まで全滅してしまうねん。そんな恐ろしいもん、誰が落とすかい! もう、取り越し苦労やめときなさい!」
ここに来て、この映画における戦争の意味はますますはっきりしてくる。
ガンめんがこだわった個人の死に対する「畏れ」というものは、核戦争という殺人の大量生産と合理化を目指すシステムの前に敗北する。
先の社長の「屍衛兵」の話にガンめんは感動を覚えた。この「屍衛兵」葬儀を儲からないと断じた仲間たちは、ガンめんの理想を一蹴して、葬儀の大量生産と合理化に成功して繁栄している。
この大量殺戮兵器と大量葬儀運営のシステムの事実がパラレルに作用してガンめんを打ち砕くことになる。
独力で葬儀博覧会を開催しようとするガンめんは、力及ばず、遊園地のお化け屋敷ほどの粗末なものしか建設することができない。
その時、大阪の空に閃光が走り、大地が轟音とともに揺れ、地下に設置していた葬儀博覧会会場は無茶苦茶に破壊される。
地上へ這い出たガンめんが目にした光景は、一面焼け野原で誰一人いない街の姿だった。
「水爆が落ちたんや」
さまようガンめんはつぶやく。
「葬博や、これがほんまの葬博や……」
他者の死について、考えたり感じたりする者が誰ひとりいなくなった世界では、当然のように葬儀の在り方など議論する必要もない。
そもそも死についての解釈は千差万別に感じる人間があったから存在したのであって、畏れがあろうと無かろうといきている者の思考や感覚だけに依っていたのだ。
人間が一人残らず死んだのであれば、宗教も神も存在し得ない。ましてや弔いを考える必要もない。
この状態に立ち入った時、ガンめんの葬博が完成する。ガンめんが訴えてきた死者の在り方というものは、すべてがなくなった思考が存在しないところで真理となるからだ。
逆説的なところでは、戦没者の死を考えないと戦争は無くならないというガンめんの当たり前の訴えも、生きている人びとの戦争の死に関する捉え方で如何様にも変化してしまうことは、教頭や村長の言でも明らかだ。
武田泰淳の小説『異形の者』で主人公の僧侶が、最後に仏に向かって言い放つ言葉「あなたはそうやって、ただ黙って見ているだけだ」、あの存在が、映画『とむらい師たち』の結論となる。
ただ、死を黙って見ている存在があり、最終的にガンめんが抱いていた死者への畏れはそれであったことがここに来てはっきりするのである。
そして、さらにこの「葬儀」が完成されるためには、思考している最後に生き残ったガンめんが死を迎えなくてはならない。だから、ガンめんはラストシーンで陥没した奈落に落ちてゆくのだ。
戦争について考えることは、人道といった道義的な問題だけに依るのではない。人を殺すから、強制的に殺されるから、戦争が悪であるというような議論はこの映画の前にはあまりにも単純すぎるものになる。
誰もいなくなった「葬博」の様子を見ることができるのは、この映画の鑑賞者だけとなる。誰ひとり思考しなくなったスクリーンの世界のなかで、観客は死の畏れの正体と同化する。
『異形の者』の仏同様の「もの言わぬ観察者」となる。
そうなれば、観客はこの映画の90分間の尺のなかで見てきたことについての思考から逃れ得なくなるはずだ。
戦争と死について……
教頭や村長のような思考停止は、もはや不可能となる。
なぜなら、われわれは、武田泰淳が感じた仏のような存在ではなく、
生きている……人間だからだ。
このように、映画『とむらい師たち』は驚くほど高度に計算された戦争映画なのだ。
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