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⚫︎レジムビ★『遊びの時間は終わらない』-遊びの時間の大衆論−

⚫︎レジムビ ★『遊びの時間は終わらない』-遊びの時間の大衆論−

『遊びの時間は終らない』1991年 にっかつ

監督:萩庭貞明
脚本:斉藤ひろし
原作:都井邦彦『遊びの時間は終わらない』
出演:本木雅弘、 石橋蓮司、西川忠志、伊藤真美、萩原流行、斎藤晴彦、赤塚真人、 原田大二郎

 小さな地方都市の銀行の防犯訓練。警察署長の鳥飼(石橋蓮司)は筋書きなしの訓練という斬新なアイデアで、地元マスコミにも事前のウケもよく大いに満足だった。 

 犯人役を命じられた交番勤務の平田巡査(本木雅弘)が銀行に強盗に入り、銀行から通報を受けて急行する警察庁のエリート、深川警部補が犯人逮捕して訓練は終了。そうなるはずだった。「筋書きなし」の設定を忠実に守る真面目一本の平田巡査は、自ら設定した犯人のセオリー通りに「ばん!」と一言、深川警部補の頭にライフルに銃口を向けた。 

 早期解決でもって、訓練終了を嬉々としてマスコミに伝えるつもりの鳥飼所長の元に届いた報告は「犯人逮捕で訓練終了」ではなく「犯人に撃たれて深川警部補殉職」だった……。

「筋書きなし」の訓練のはずが裏で「筋書きあり」だったのに、犯人役とのディスコミュニケーションから犯人が銀行に籠城。警察は訓練を続けなくてはならないという奇想天外な発想によるコメディー映画だ。

 子供の頃から成績優秀と設定した犯人のキャラクター通り平田巡査は犯人を演じ切って、頭の切れる犯人は警察の事件対応を次から次へと覆してゆく。

 訓練の報道は、地方局から全国規模にまで広がって、面子にかけて犯人逮捕するまで「訓練中止」できない警察署。県警本部長から次々と「大物」が送り込まれてくるが、機転のきく平田巡査の犯人に警察側は裏をかかれて事件を解決できなくなってしまう。

 地元のケーブル局はエキセントリックでキー局から追い出されたはみ出し者のディレクターの柏崎(萩原流行)を報道チーフに起用。マニアックで真面目な柏崎の投入で、訓練は大衆を巻き込んだ騒動にさらに発展してゆく。

⚫︎大衆が求める英雄のキャラクター

 この映画の面白さは、もちろん訓練というバーチャルリアリティーというアイデアによる喜劇性だが、もう少し違うところを観察してみると、実はかなり意味がありそうだ。

 警察という国家権力に対する一種の笑いによるレジスタンスであるのはもちろんだが、わたしは「事件」と「大衆」という関係に面白さを感じる。この面白さはどこからくるのだろうか?

 詰めかけたヤジ馬の市民や全国のテレビ視聴者は、警察を翻弄させる平田巡査の犯人をいつしか応援するようになる。

 ここで観察すると、犯人、銀行員、警察という訓練関係者のすべてが、実はその与えられた立場に実に忠実であるということだ。それはたとえバーチャルだとしても、真面目に対応すればするほど深みにはまってゆく。

 大衆の代弁者と言い切る「キレた」柏崎ディレクターの存在は平田巡査の犯人とパラレルに機能している。平田巡査も柏崎ディレクターが持っていて、他の警察関係者が持っていないものはなにかというと他の人が持っていない動機だ。

 鳥飼署長も深川警部補も訓練に対して野心がある。鳥飼はマスコミ受けをして、そこから警察官としての評価を得たいと目論んでいるし、キャリア組のエリート警察官の深川警部補は最初から評価されているので、出向先の警察署での小さな防犯訓練など取るに足りないことである。

 ところが深川警部補と歳も変わらぬ平田巡査は真面目で実直だから警察署内部の評価は直属の上司の言葉を借りれば「融通が効かない」人物で、出世コースからこぼれ落ちている。

 エキセントリックさからキー局を追放されて地方局に飛ばされ、ろくな仕事を回してもらえない柏崎も平田巡査と同様に「優秀」なのに「落ちこぼれ」なのだ。

 この二人は自分に忠実で上役の評価や未来の出世のために自分の行動を左右することを知らない。ましてや大衆を動かそうとかマスコミを動かそうとかも意思もないわけである。

 この二人の風車に向かって槍を構えて突っ込んでゆくが如しの「ドン・キホーテ性」が期せずして大衆の心を掴む。そして、大衆の支持を受けるのだ。

 平田も柏崎も組織の世界では、うとまれて、認められない。認められようともしていない。出世は最初から期待もしないし、それに価値観を置いてないから、自分の思うままに行動できる。そういう人が人びとの心を動かす。

 うつろいやすく、当てにならないと思われがちな大衆のジャッジは実のところ侮れないものがある。

 私たち「大衆」が政治家や権力者の言説に「胡散臭さ」を感じたり、信用ならないと思ってしまうのは、この映画に登場する出世コースの警官たちのような裏にある「真顔」をどこかで知っているからである。それでも、そういう「真顔」にレジスタンス出来ないでいるのは、大衆自身が政治家や権力者らが作っている社会システムに安住するほか生きる術がないからである。

 そういうシステムを無意識で壊してしまう平田や柏崎のような権力者側から見た「空気が読めないドン・キホーテ」が大衆を動かす潜在的な力を持っていることは、この映画の一つのメッセージでもある。

 チャップリンの『独裁者』でも、独裁者のヒンケルを倒すのは、大衆の心を最後に掴んだ捨て身の床屋であったことも『遊びの時間は終わらない』と同じ構造と言えそうだ。

 大衆とドン・キホーテと権力者の三角関係は結局、権力者が作っている社会によって決定されていることは、日常ではつい見逃しがちだ。

 19世紀から注目されるようになった大衆という存在は、オルテガの『大衆の反逆』やル・ボンの『群集心理』によって解析され、そこからヒントを得た「ドン・ホーテ」を演じて大衆を操作するという手法を作ったのが20世紀の最大の独裁者アドルフ・ヒトラーということになる。

 第二次世界大戦の後、大衆の存在について、さらに思索をめぐらしたアドルノやアーレント、フロムらの著作からも明らかだが、ますます大衆としての私たちのリテラシーが現代では必要とされている。

 平田や柏崎の純粋無垢な「ドン・キホーテ性」を自分自身の利害に利用する県警本部長や地方局長のような人物も現実にも存在している。

 『遊びの時間は終わらない』はコメディーのなかに、社会のシステム変換の可能性を示す一つの理想を面白く伝えた映画である。

 しかしながら、この映画のタイトルが示すように最初からこれは「遊び」であると明言している。「遊び」でないと変換できない権力者の社会システムというアイロニーのなかに、私たちはなにを考えるべきだろうか。

 遊びの時間は終わらない

 この言葉は私たちの社会に向けられた鋭いメッセージなのである。


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