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遅読こそ最高に誇れる読書術である

本稿は2024年3月9日にNPO法人ハッピーブックプロジェクトの主催するオンラインイベントにゲストとして招かれ、講演をおこなった際の内容を活字化したものです。読書をしたいけどなかなか時間が取れない人の参考になるような講演を、という要望があったのでそれに応えるかたちで「遅読」について考えてみました。

1、なぜ今、遅読なのか

今日は「遅読こそ最高に誇れる読書術である」というタイトルで「遅読」、つまり、遅く読むことの意味について、お話ししたいと思います。なぜそんなことを話すかというと、せっかくなのでこの機会に誤解を解きたいからです。よく書評家です、と自己紹介をすると、「一ヶ月に何冊読むんですか?」とか「一冊の本をどれくらいの速さで読めるんですか?」みたいに聞かれることがほんっとうに多いんですね。そのたびに僕は気まずさを感じて逃げ出したくなります。そういうことを尋ねる質問者は、僕がハイパー読書術を持っている超人的な存在であることを期待していることがなんとなく伝わってくるからです。

はっきり言えば、僕は本を読むのが遅いです。ジャンルにもよりますが、小説の場合、だいたい30分で10ページくらい。本と付き合って20年以上が経ちますが、このペースはずっと変わらないので、きっとこの先も向上することはないんじゃないかなと半ば諦めています。まぁ、改善させるつもりもないんですけどね。

遅読というと、なぜか恥ずかしいことだと思われるふしがあります。本は速く読めた方がいいという観念もちまたには蔓延っているようです。ゆっくり読むのはもったいない、無駄なことだと捉えられる傾向があることは僕もなんとなく知っています。

たとえば、本屋さんの読書論コーナーで目についたので手に取った、書評家として活動されている印南敦史さんの『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)という本。これは、もともと遅読だった印南さんがいかに遅読から脱出できたか、その方法論を説く読書論でした。つまり、この本は「熟読の呪縛」から逃れる術を教えてくれるわけでして、印南さんはここで「いくら熟読しても、実際には忘れていることのほうが多い」と書き、次のように言います。

読むスピードと理解度・記憶は、まったく比例しないということ。つまり、「書評を書くのだから、ゆっくりじっくり読まなければ……」というのは大いなる勘違いであり、ゆっくりじっくり読んだからといって、内容がよりしっかり頭に入るわけではないのです。

印南敦史『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)

さらに、印南さんは「遅読家というのは、読書に対する真面目さを捨てきれない人」だとまで断定し、「「自分は遅読家だ」と感じているみなさんも、まずはこうした「熟読の呪縛」から抜け出すところからはじめていただきたい」と促します。うーん、辛辣ですね。そうとまで言い切られてしまうと、この時点で僕みたいな遅読家は何か間違った読書をしているような気になって、自分のことが恥ずかしくなってしまうわけです。

もちろん、印南さんがなぜそんなことを言おうとしているのかを理解しようと思えば、できます。読書を忍耐力のいるもの、時間のかかるもの、気楽にできないものと考えてしまうと、読書人口がどんどん減っていく。ただでさえ、若者の読書離れがどうとか言われている昨今にあって、本はゆっくりと読め、と言われれば、めんどくさいな……と思うのが普通でしょう。(だから、本を読むことは苦行だ、もっと楽に本を読めないものかと考える人にとっては印南さんの本は皮肉でもなんでもなく、とてもオススメだと思います。)

しかし、です。やっぱり、この考えに僕は同調できない。ここには流行りの言葉で言えば、「タイパ」的な価値観がある気がしてなりません。時間のかかるものは無駄。すべてを効率性に還元して価値を推し量る考え方からしたら、ゆっくり本を読むことなんて罪でしかないでしょう。タイムパフォーマンス的な観点で考えれば、本を読むなら、その一冊を要約してくれている動画を見た方が早いはずです。

でも、わかってもらいたいのは、本を読むという行為はそもそも「タイパ」的な価値観とは全くの反対側にあるものだということ。「タイパ」という発想がいいか悪いかを論じることは、ここではしません。ただ、「タイパ」的な思考だけで世の中を見ていたら、大切なものを見落としてしまうんじゃないかということだけは伝えたいと思います。

では、「タイパ」的な読書術では何を捨て去ることになるのか。それは、「考える」という営みではないでしょうか。

今日はすっかり恥ずかしいものと見なされるようになった遅読を肯定したくて、みなさんにお話しする機会を設けてもらいました。遅読を恥じない。「タイパ」の時代の遅読のススメを頑張ってお伝えしたいと思います。

2、情報化社会に抗う遅読のススメ

「タイパ」の時代、あるいは、この情報化社会のなかで遅く読むことの意味とは何か。こうした問題意識で遅読のススメを説いた本は他にないかと調べてみると、山村修さんという人が二〇〇二年に既にまさに『遅読のすすめ』(新潮社)というタイトルで書いていることがわかります。山村さんがこの本で仮想敵にしているのが、立花隆(と福田和也)。立花隆さんには『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』という本があり、そこで立花さんは逐文的に本を読むことはせず、構造をつかみ、流れをつかみ、章単位、節単位、パラグラフ単位で、だいたい言ってることをつかみながら読むテクニックを披露しています。そのような読み方を身につければ「一ページ一秒、ちょっと遅くても二、三秒で読める。三百ページの本で、三百秒から九百秒、つまり、五分から十五分しかかからない」のだと言うわけです。

じつは僕もこの読み方をすることはできます。僕は日本文学の研究者として活動することもあり、資料を探す際などは、このようなテクニックが役立つこともあるので自然と身につきました。でも、だからこそ、普段、特に書評のために読む際は、自分にこの技術を使うことを禁じています。なぜかといえば、この読み方は、僕にはとてもつまらないからです。

ではなぜ、立花さんはこのような読み方をするのでしょうか。立花さんは「これからの時代、人間が生きるとはどういうことかというと、『生涯、情報の海にひたり、一箇の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる』ことだ」と言い、人間を「情報を入れては出しつづける情報新陳代謝」として捉えるべきだと説いています。

山村さんはそんな立花さん(と福田和也。福田さんにも同様の趣旨の『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』という本があります)の読書術に対し、「立花式、福田式の速読は、みずから情報をどんどん摂取し、どんどん排泄していく『情報人間』になろうという人生上の選択をした人にとってのみ有効な読書術である」と批判をするわけです。

それらの人々は、なおかつ、そうしてどんどん摂取していく情報を、何らかの形で自分の仕事(職業であれ非職業であれ)に生かそうとする人たちである。それはそうだろう。自分の仕事とまったく関係なく、本だけは日夜「一ページ一秒、ちょっと遅くても二、三秒」のスピードで大量に読破していく人などいるだろうか。もちろん目的をもたない営みも、あっていい。目的のない読書、それは大いにある。しかし目的のない速読というのは、私などには想像できない。

山村修『遅読のすすめ』(新潮社)

さらに、山村さんは「『情報人間』たらんとし、なおかつ大量の情報摂取を仕事としている人。そういう人のみが立花式、福田式の速読を必要とする」と書き、そうした「情報人間」と自分の相容れなさをこの本のなかで綴っています。20年前にこの本を執筆し、ほとんど孤軍奮闘な状態で速読と戦っていた山村修という人の援軍に20年越しにつくかたちで、ここで書かれていることを受け取ってみましょう。

もちろん「情報人間」がダメだというわけではありません。「情報人間」であらねばならぬときもあるし、「情報人間」でいることが得をするときだってあります。ただ、読書において情報を摂取することを一義的な目的とするのは、本を読む意味をとても狭めているんじゃないかな、と感じてしまいます。僕が気になるのは、印南さんも立花さんも、本を、そうした速読に向くものと向かないものに峻別して、向かない本=小説などを読まない、あるいは読む比重を減らすことを提唱していることです。立花さんは小説を「タイムコンシューミング(時間ばかりくってもしょうがない)な本」だと捉え、読むことを放棄してしまったと言っていますし。

情報化社会にあって、人々は情報摂取の強迫観念に襲われていると思います。印南さんの本も、本を猛スピードで読むことを奨励こそしますが、なぜ本を読むべきなのかは書かれていません。情報の波に取り残されることの不安。そのようなものに駆り立てられて行う読書は、確かに本が売れるからいいのかもしれませんが、人間の実存にとって決していいものではないでしょう。

さて、僕は今回の講義を「遅読こそ最も誇れる読書術だ」と名付けましたが、実はこれには元ネタがあります。永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)が、それです。(ちなみに永田さんからは許可をいただいています。)

この本のなかで永田さんは、出版不況と言われていながら本の刊行点数だけがやたらと増えていく現代を「情報が濁流として押し寄せている積読環境」と呼んでいます。無数のコンテンツが消費されるためだけに(少しでも出版社の利益になるために)生み出され、世界のなかに本が積読として蓄積していくような状態。そのなかで人々は、積読してしまうことをどこか「うしろめたい」と感じてしまう。情報をきちんと摂取していないと時代に取り残されてしまっているのではないか、という焦燥感に駆られるわけです。永田さんの本は、完全な読書や情報のむやみやたらな摂取の呪縛から逃れるために、積読の可能性を最大限引き出すことを目論むものです。

永田さんは次のように言います。

目の前にある本を、本に求められるままに手に取り、無批判に読んでしまうとき、読者は情報の濁流に飲まれ、流されてしまいます。なぜならば、その目の前の本は、契約どおりの出版点数をクリアするために通された企画に基づいて書かれただけの、いわば情報の濁流が作り出した書物の可能性があるからです。繰り返しますが、ほとんどの書物、ほとんどのコンテンツにその側面があります。

本書は、そのような「読書」を回避するための方法を模索するものです。

永田希『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)

永田さんが本書で模索する方法というのは、「ビオトープ的積読環境」と名付けられたものを構築することです。ビオトープとは、公園などに作られた、動物たちが自律的に生息できる小さな空間のこと。永田さんは、情報の濁流が起こることによって「無秩序に増大していく他律的な積読環境」に抗うために、「ある程度の独立性を持って自前の積読環境を自律的に働かせる」方途を探っているのです。ようは、情報の氾濫する外の世界とは独立した、自分だけの空間に自分で本を積み上げながらも、それを(完全に)読んでも読まなくてもいい、そんな自由な読書の方法を提唱しているわけです。

永田さんの読書の方法は、読み方こそ立花さんや印南さんに似ていますが(全部読まないことを認めるという意味で)、その本質的な動機は全く異なるものだと僕は思います。永田さんは、情報の濁流から自由な場所で読むことの意味を考えています。強迫観念的に情報を摂取することからの自由と言ってもいいでしょう。僕が今日、お話ししている遅読とは、ある意味では精読に近く、それは完全に読むことを求める点で、永田さんの読書術とは正反対なものに思えるかもしれない。ただ、僕が提唱する遅読は、情報の摂取を強迫観念的に求め続けることに抗うための読書である点で、永田さんと同じ問題意識を共有するものだと思います。重要なのは、情報の濁流に溺れないために本を読むということそのためなら、本を積んでもいいし、ゆっくり読んでもいい。そのことを僕は今日、考えてみたいわけです。

3、ゆっくりと読むことの実践

19世紀に活躍したフランスの批評家、エミール・ファゲという人に『読書術』(石川湧訳、中条省平校註、中公文庫)という本があります。この本の第一章がまさしく「ゆっくり読むこと」という題なのですが、この文章は、もう、金言の連続。全文書き写したいのですが、ひとまず冒頭を引用しましょう。

読むことを学ぶためには、先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして、単に諸君によって読まれるという名誉を持つであろう最後の書物に至るまで、極めてゆっくり読まねばならぬだろう。書物はこれを享楽するためにも、それによって自ら学ぶためあるいはそれを批評するためと同様にゆっくり読まねばならぬ。

エミール・ファゲ『読書術』(石川湧訳、中条省平校註、中公文庫)

いやぁ、すばらしき遅読宣言ですね。僕はね、この文章を遅読派のマニフェストとすればいいと思うんです。ちなみに、ファゲは速読を完全に否定し、「性急は、怠惰の一形態にすぎない」とまで言っています。本を味わうための最大の鉄則。ゆっくり読むこと。それは批評と享楽を同時に叶えるための、大事な方法論なのです。

ファゲが言うように、遅読は批評の方法です。それは別の言い方をすれば、精読に近い。精読とは一字一句、丁寧に、丹念に、舐めるように読む方法です。この極意を誰も及び得ないやり方で実践した人がいます。劇作家で評論家の宮沢章夫さんです。宮沢さんには『時間のかかる読書』(河出文庫)という大傑作がありますが、ファゲの『読書術』がマニフェストなら、僕はこの本を遅読派の教科書に指定したいと考えています。

だってね、宮沢さんはこの本のなかで横光利一の「機械」という原稿用紙で50枚程度の短編を、なんと11年(!!!)かけて読むということを実践しているんですよ。驚異的ですよね……。一つの短編を、一文一文、解体し、単語の一つひとつに注目し、ときには読みを逸脱しながら、読解していく。ちょっと信じられないくらい遅い読書は、最高の批評になっているわけであり、本を読み、書かれていることを前に立ち止まり、考え、理解する、その行為の愉しさを極限まで引き出す試みとなっているのです。

「機械」の最初の一行は次のようになっています。

初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。

横光利一「機械」

普通の読書なら何も立ち止まることなく、次へ進むのでしょうが、宮沢さんはこの一行にたっぷりと紙幅を費やす。

書き出しはひどく唐突に感じる。

「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った」

いきなりそう言うのである。けれど、「ときどき思った」は曖昧な表現で、あきらかに「狂人」だったらそんなふうには書かないだろう。さらに、「初めの間」とあるところから察すると、やがてその印象も変わったことをうかがわせる。

「私は私の家の主人が狂人ではないのかと思った」

こうすると、「主人像」もかなり変わってくるが、一気に、「私の家の主人は狂人だ」と断定したほうがすっきりして、狂人ぶりがより鮮明にイメージされる。だからそれは、いつも腕をぐるぐる回しているとか、鍋を帽子がわりにかぶっているとかいったことになって、それはたしかに狂人だ。しかし、あまりにそれらしくて、いかにもリアリティがない。横光利一はそうはしなかった。「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った」であればこそ、リアリティと同時に、リアリティゆえの不気味さが出現する。それでわたしは、この一行に不可解な気持ちにさせられたのだった。

宮沢章夫『時間のかかる読書』(河出文庫)

宮沢式遅読は、この小説の持つ不穏さが書き出しの一行に詰まっていることを見事に見抜くわけです。この遅さは、どこか超人的な感じを抱かせますが、でも、精読をする人は、その速度のいかんに関わらず、きっと同じことを感じるのではないでしょうか。宮沢さんは、私たちが刹那的に感じることを、ゆっくりと、たっぷりと言語化してくれている。遅読とは、自分の読書経験を一つひとつ言葉にして確かめていく行いでもあるわけです。

だから、たとえば、宮沢さんは、改行ひとつとっても、つぶさにその意味を考える。この作品は改行が極端に少ないのが特徴的です。全部で7回しかない。それらの改行をゆっくりと身体で享受するように読む宮沢さんは、「本作に見られる数少ない「改行」は、語り手である「私」の「息継ぎ」ではないか」という考えを抱きます。そして、

本作にたった七回しか出現しない「改行」の意味がある種の息継ぎで、そこに発生しているのが「弛緩」だとするなら、逆に考えれば、「改行」までの文を支配するのは、息を止めるような「緊張」だと言うことになる。
「ふいーっ」
こんな声も聞こえてくるのである。数少ない「改行」のたびに聞こえる。緊張とは息苦しさのことだ。『機械』に漂うのはこの苦しさだが、「ふいーっ」が示すこのなんとも解放された気配によって、作品を読む者も、「私」も、そしてことによると横光利一も、なにか開けた場所に出られた錯覚に陥るものの、けっしてそんな期待を持ってはいけない。

宮沢章夫『時間のかかる読書』(河出文庫)

と、この小説全編を貫く「緊張 → 改行 →弛緩」のリズムを看取します。読書とは全身の器官を使った芸術の鑑賞である。だから、改行ひとつでさえ、何かしらの効果を作品全体に生み出す。そんなことは、性急な読み(飛ばし)では気づくこともできないことでしょう。ですが、それは、いわゆる精読(というか、普通に一行ずつ読む、みんなが常に行なっている読み方)では気づかずとも誰しもが感得していることなのです。

もう一つだけ、宮沢式遅読の批評性が伝わる箇所を紹介させてください。「機械」の語り手の「私」はある日、汽車のなかで一人の婦人と出会い、彼女がこれから始める下宿に厄介になる約束を取り付けると同時に、彼女から仕事も斡旋してもらいます。それが婦人の親戚が経営するネームプレート工場で、冒頭で「狂人」と呼んだ主人に仕えることになるわけです。この主人は抜けている部分こそ多いのですが、周囲からは良い人だとささやかれ、私もまた彼の人柄に魅了されます。ただ、そんな主人を守るためか、同僚の軽部という男が彼のことを怪しみ、疑っている。「私」はそんな環境であくせく働いているのですが、ある日、主人に暗室に呼び出され、重要な実験を任されます。

その場面は「或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので(……)」と始まるのですが、この一文の前で4つ目の改行が起きています。宮沢さんはこの一文を捉え、「緊張」していた「私」が改行によって「弛緩」し、そして、時間がそれまでの日常から「或る日」へと移ろうことに目を留める。「或る日」とは、その前の文からどれだけの時間が経ったことを意味するのか。3日後であれば、具体的にそう書くだろうし、数ヶ月や1年が過ぎていたら「或る日」どころではない。ちょうど手頃なのは「一カ月という時間」ではないか。そう考えるわけです。

すると、この作品には、「一カ月の時間」が省略されていることになる。つまり、小説では「語るに値しないと思われる日常は省略される」という、私たちが普段、自明にし過ぎて気にも留めていないことがここで問題にされ、また、「語るに値する」この「或る日」「暗室に呼び」込まれるといった事態が持つ意味についての、ゆっくりとした考察が始まっていくのです。

こうした遅い読書について考えることとは、いったい宮沢さんにとってどのようなものだったのでしょうか。宮沢さんは「はじめに」でこの思いがけず11年に及んだ読書を書くことについて、それは「読むことの停滞」について考えることだったと言っています。

やはりわたしは、「読むことの停滞」について書いていたのだ。あるいは、「ぐずぐずすることの素晴らしさ」について書いていたと言ってもいい。近代からこのかた、人は合理の中で、するすると仕事を進める。滞りのなさや、失敗しないこと、器用にものをこなすことに快感を得ている。それがなによりの美徳かのようだ。だが、そうしたくてもできない者だっていることを、いかに擁護するかも大事ではないか。わたしはできない。そんなふうに器用にはできないから、電車とバスをうまく乗り継ぎ、時間に正確に、目的地にはたどりつけないのだ。

宮沢章夫『時間のかかる読書』(河出文庫)

そして宮沢さんは書く。「気がついたら、とんでもない場所にいる」と。計算された方法で目的地にたどりつくのではなく、「気がついたら、とんでもない場所にいる」こと。それこそが本を読むということの、意味なのではないでしょうか。「べつに本なんて、速く読めばいいものではないし、停滞するからこそ、読んでいる内容とは異なることに意識が動き、あ、なんで俺はいま、『機械』を読んでいるはずなのに、美味しい天ぷら屋のことを考えているのだ、ということは何度もあった」。そう、宮沢さんは書くのですが、この気持ちはすごくよくわかりますよね。本を読みながら、例えば、なんかこの登場人物、既視感あるな、そうだあいつだ……って、高校生時代の友人のことを思い出す。何でもない場面で、登場人物がパスタを茹でてるのを読んで、あ、今日の夕飯はカルボナーラにしよっかなと思う。そんなことを考えていると、読書が捗らない。でも、それが本を読むという体験で、その「ぐずぐず」感は何も恥ずかしいことではないのではないでしょうか。

この逸脱、脱線を繰り返しながら、考える。ゆっくりと本を読むとは、情報を仕入れるのではなく、そうした経験を得ること自体に大切な意味を持つ行為です。平野啓一郎もスロー・リーディングを提唱した『本の読み方』という1冊のなかで「小説家が本を読むのが遅い理由は明らかだ。それは、彼らが考えながら読むからである。重要な一節に出くわす度に、本を置いて考える。ときにはそのまま、読書を中断して、翌日までずっとものを考えていることもある。そんなことを繰り返していて、速読などできるはずがない」と書いていますが、ここに、情報の濁流に飲まれない方途があることはわかってもらえると思います。

なぜ、遅読を恥じる必要があるのでしょうか遅読こそ、最高に誇れる読書術であるのです

4、僕の遅読術

さて、ここまでで言いたいことは全て述べてきたので、もうお腹いっぱいな人はここで終わっていただいて構いません。ここからは少しだけ、僕が遅読を具体的にどう実践しているのかを書きましょう。

僕の遅読体験は、大学1年生の頃のゼミにあります。僕はある批評家のゼミで村上春樹『ノルウェイの森』を読んだのですが、そこで習得した読解は次のようなものでした。(ちなみにこのことは『群像』で連載している「僕と「先生」」というエッセイに詳しく書いているので、関心のある人はそっちも読んでみてください。)

まず、徹底的に、作品を分解する。登場人物たちの着ている服の色を抜き出したり、音楽を洗い出したり、作品の舞台である早稲田の地図を用意して、彼らが歩いた跡を確かめたり。

直子 …… 淡いグレーのトレーナー(文庫版「上」、三十九ページ)、ブルージーンズと白いシャツ(「上」二八〇ページ)、淡いブルーのガウン(「下」三十七ページ)……。

キズキ …… 赤いN360(「上」五十二ページ)、ヤマハの一二五ccの赤いバイク(「上」二一二ページ)。

緑 …… 白いコットンのミニのワンピース(「上」一〇五ページ)、〈私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの〉(「上」一一一ページ)、よもぎみたいな色のセーター(「下」二一六ページ)……。

ハツミさん …… ミッドナイト・ブルーのワンピース(「下」一三〇ページ)

みたいなかたちでメモを取っていくわけです。例えば、そうすると次のようなことがわかる。語り手の「僕」が緑という女性と初めて出会う場面で、彼女は白いコットンのシャツを着ているんですが、僕に「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの」と言う。しかし、物語の後半で、直子という別の女性に気を取られて自分のことを蔑ろにした「僕」の前に、緑は「よもぎみたいな色のセーター」を着て現れる。「緑色が似合わない」と言っていた彼女が「よもぎみたいな色のセーター」を着ていることに、彼女の、「僕」に対する怒りと失望を読めなくもないわけです。

また、作品年表も遅読のためのツールです。これを使うと性急な読み(飛ばし)では見落としてしまうことも、気づく。例えば『ノルウェイの森』の年表を自分で作成し、1969年のカレンダーとそれを突き合わせながら読んでいくと、主人公の「僕」の誕生日がわかったりするんです。以下の具合に。

「僕」は9月の3週目の月曜日にある授業に出席している(カレンダー上は、9月15日)。その一週間後(9月22日)に「僕」は直子に手紙を書き、返事が返ってくるのが十月の第二週の日曜日(10月5日)。翌日、「僕」は直子に会いに行き、二泊し、東京に帰り、翌日の午前中、体育の授業に出る(10月9日)。その週の日曜日(10月17日)に緑の父親に会い、訃報を聞く。翌週の土曜日、寮の先輩の永沢さんとその恋人とご飯を食べる(10月25日)。「僕」はその日、帰宅すると、「やれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペースで日曜がやってきているような気がした。そしてあと二回日曜が来たら僕は二十歳になる」と言うわけなので、カレンダーで見ると、「あと二回日曜が来たら」というのは11月2日を指すことがわかる、というわけです。ちなみに村上春樹の誕生日は1月12日で、112という並びは一緒なんですね。

と、こうやって年表を作ればゆっくり読むことができるのですが、もっとゆっくり読む方法もあります。僕は、この考えが合ってるかを確かめるために、早稲田の中央図書館の地下書庫に行って1969年の『講義要頁』を探したことがあります。『ノルウェイの森』では「僕」は早稲田大学の授業に9月の3週目の月曜日に出席していることになるのですが、『講義要頁』を見ると、この年、早稲田の後期の授業は9月の3週目の火曜日からと書かれていることがわかります。そうすると、この小説では、現実では大学が休みの日に「僕」が授業を受けていたことになる。まぁ、フィクションなんてそんなものかと思うかもしれませんが、『ノルウェイの森』は村上春樹がみずからリアリズムをうたった作品として有名です。作者の仕掛けたリアリズムはここで綻びが出るわけです。この綻びをどう考えるか、というところから批評は始まるのではないか、と僕は考えています。

遅読は、文章を逐次的に追いかけ、小説を「ぐずぐず」と読むことです。年表を作ってもいいし、作品の地図を作ってもいい。住んでいる住居の絵を描いてもいいです。ゆっくり読むための武器はたくさんあるはずです。情報の濁流のなかで、情報を摂取しなければならないといった強迫観念のなかで、立ち止まることそのための遅読は、情報化社会のなかで自分を見失わず、自分であり続けるための、大切な営みだと、僕は考えています


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