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『週刊読書人』(12月1日号)に津原泰水『夢分けの船』(河出書房新社)の書評を書きました。

修文はほっとしたような心地となったが、同時に薄りと落胆を覚えてもいた。目映い海を越え黄泉路が如き新幹線の移動を経て猶、未だ郷里の何等瞠るべくもない道々の続きに立っている。茲は海辺の飛び込み岩のような街だろう。(……)

津原泰水さんの遺作となったこの小説を開けば、戸惑いを禁じ得ないはずです。アナクロニスティックな語彙の連続。夏目漱石のような明治の作家の、緊密な文章の模写。それでいて描かれているのは、現代の東京で夢を追う青年の姿。そんなアンバランスな石垣の上に、この物語は精巧に築き上げられています。

主人公は二十二才の愛媛で育った秋野修文。彼は、高校卒業後は地元の大学に進学したものの、一年で中退し、父親の工務店で働きながら金を貯め、専門学校で音楽を学ぶために東京に出てきた。そんな矢先、同じ学校に通う一学年上の嘉山という男から、下宿先となる部屋に関する、ある噂を聞きます。

〈出るよ、茲(ここ)〉。そう、数年前にこの部屋から身を投げた、久世花音の霊が――。

この小説は修文の青春譚です。嘉山の手引きによって東京で出会う人々と新しい絆を結んでいく彼の物語は、夏目漱石の『三四郎』をどこか彷彿とさせます。書評では、〈羊〉や〈迷う〉という単語が印象的に使われることから、修文を現代の「迷える子(ストレイ・シープ)」として捉えました。

それだけではなく、この作品は近代文学を模写しながら、近代を壊す力を持ちます。例えば、作中人物に霞という風俗で働く女性が出てくるのですが、彼女は近代の捉え方に倣えば「娼婦」と呼ばれる存在です。しかし、その闇性に戸惑う修文に霞は、次のように言ってのけます。

そういう正直さってさ、秋野さんの美徳だと思うけど、間違いなく敵も作るね。それに娼婦って、せめて風俗嬢だろ。

書評ではここを、「近代的な娼婦幻想を霞の言葉は砕き、セックスワーカーとして自己を捉え返す」「霞の自律性が前景化する」場面だと考えました。

書評を書きながら、津原泰水さんの遺作に宿る、文学を更新する力に胸を打たれました。僕は、津原さんの作品をこれまで全部読んできたわけではありません。でも、津原泰水という人の、日本文学がこだわり続けたジャンル性に縛られない特質を告げるこの作品を読み、津原さんが日本文学にとって、どれほど特別な小説家だったかを再認識させられました。

津原さんを悼むためにも、彼のこれまでの作品を今一度、読み直したいと思います。ありがとうございました。

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