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【短編小説】レイクサイドの よどみさん

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その3

朝八時半、よどみさん(愛称)こと、淀 みゆき さん(26・独身)は、白鳥湖公園前バス停で降りると早足で公園をまっすぐにつっきり、早春の寒空に剥き出しの枝を伸ばす桜の木々を眺めながら、湖のほとりにある三階建てのビル、レイクサイド・デザイン社をめざした。

途中、ベンチで新聞を読む老人男性が連れている、溶かしバターの色をしたちいさなコーギー犬が目に入り、パパッと近づいてババババッと撫でたい衝動にかられたが、突然無言でそんな人間がやってきたら犬もご老人もガクガクブルブルするだろうし、脈拍が爆上げになるなど体調が急変したりしては、救急車を呼ぶ騒ぎになって、会社に遅刻してしまう。
なので、よどみさんは、その衝動をグッとこらえてそのままスタスタ歩き、会社のドアをくぐった。

重い手ごたえのタイムカードを押すとそのまま薄暗い階段を早足で上がり、
三階・企画部室の窓際にある自分のデスクへと向かう。
そしてこのところ、毎朝必ずデスクにポン、と置いてあるメモを手にとる。
そこには、今日、こんなことが書かれていた。

雀の巣 コロッケ香る 商店街 ―― ゲーテ

よどみさんは、すこしのけぞり、向かいの席を見た。
コピーライティング部の先輩である神林勉(35・独身)がにこにこしながら、よどみさんを眺めている。

よどみさんも、にっこりとほほ笑んだ。
「おはようございますー」と挨拶をしてから椅子に座ると、メモを両手できちんとたたみ、ゴミ箱へ捨てた。
それを見て、なぜか笑顔でこぶしを握り、親指をぐいっと立てる神林。
「今日も、おはよう!」と元気に声をかけてくるので、よどみさんの笑顔は、硬度10くらいになる。

神林は、よどみさんと仕事中あまり会話をしないのだが、朝のこのときだけはメモを使ってコミュニケーションをはかろうとしている。
これまでもニーチェやカフカやナイチンゲールを名乗る俳句のメモを貼っていた。
とはいえ、「外国の偉人を騙った自作の俳句」に、どんなコミュニケーションが期待できるというのだろうか。

よどみさんとしては、特に話す必要がないから話さないだけなのだが、それが先輩である神林に、ある種のプレッシャーを与えているのかもしれない。

神林は、ほかの後輩社員には信望が厚いようで、たまに終業後の会議室から「大丈夫だよ!」「ぜんぜんOK!」「きっと、がんばれる!」など、相談にこたえる大声(というか絶叫)が聞こえてくることがある。
そのたびに残業中のよどみさんは、やっぱり、すこしのけぞるのだ。

調子が合わない人と向き合い、調子が合わないことを確認する。
それは今日が、いつもと変わらぬ、ふつうの日であることの証でもある。
万事快調。
なのだろう。
たぶん。
ともかく、よどみさんの、その一日はこうして始まった。

午前中、よどみさんが、地元のアウトドアメーカーが売り出すキャンピングテーブルの、組立図に載せる文章を考えていると、企画室のドアをドタン、と開け、総務兼経理の御前崎部長がやってきた。

「よどみ~、よどみ~、よどみちゃん、いる~?」
文字にするとまるで同僚のOLのような口調だが、御前崎部長はけっこうダミ声の五十代のおじさんだ。
背は低いが柔道で鍛えた恰幅のよい体躯をしている。髪は角刈り。
作業を途中で中断されたよどみさんが、ちょっと、きつい目をして振り返ると、御前崎部長は「よどみ~、いまヒマ~?」なんて、これまた文字にすると気やすい友人のような台詞で話しかけてくる。

「ヒマじゃないですね」と、よどみさん。「これ、今日中なんですよ」。

なんだよ、なにやってんの、とぶつぶつ言いながら御前崎部長は近づき、
デスクに広げた資料を見ると、「こんなの似たような製品のひな型あるから、一日かかんないだろ」と、意外に専門性の高い知識をもって断言した。
そして、それは、わりとそのとおりでもあったのだ。

「こんな仕事より、俺と一緒にドライブしようぜ」
その瞬間、神林の耳がピクリと動いた。
「ドライブ?」と、よどみさん。
「取引先のアイアール印刷が潰れたんだよ。今朝一番で帝国情報社のメールが来た」

そこそこつきあいのある会社であり、よどみさんは企画部内の空気が一瞬、固まったのがわかった。
1ダースほどいる企画部員の誰も何も言わないし、みんな目の前のデスクしか見ていないのに、そういう空気が読めるのは、人間に備わった独特な能力である。

それって不思議だなあ、と思いながら、よどみさんは言った。
「なんで、それで、ドライブなんですか」
「察しが悪いなあ」と御前崎部長。「現地を見に行くんだよ。あんた、法科の出身でときどき会社の契約書を作るのも担当してるだろ。潰れた会社に行って、取ってこれるものがあったら取ってくるんだ。一緒に行こう」
「え~」
「10分で支度しろ、駐車場で待ってるわ」

まちのはずれ、白鳥湖の対岸にあるアイアール印刷の社屋入り口、固く閉ざされた門の鉄柵は大人の胸のあたりまでの高さだった。
目の前には鉄筋コンクリート四階の、役所のようなビルディング。
その背景には灰色の曇り空が重々しく広がる。冷たい風は、かぼそいうめき声のように鳴り、髪をかきあげ、頬を冷たくこすってゆく。
門の前には、同業者らしきスーツやコートの人々が二十人ほど集い、群れたまま体を揺らして立っていた。

「おたくは、いくらやられたんですか」
「うちはそれほどでも……」
「いくらかでもね、売上を回収できれば……」
「もうすぐ花見の季節なのに、たまりませんなあ」
などなど、微妙な不幸自慢が挨拶で交わされ、そこはかとなく一体感が漂う集団となっている。

御前崎部長も、作業服の上にジャンパーを着た、汚れたチンチラを連想させる小太りの中年男性に、「レイクサイドさんも、そうとうやられたんじゃないですか」とフランクに訊かれ、「いやあ、うちは、ぼちぼちですな……」と、まったく意味のうかがえない答えを返していた。
それでも「ほう、そうですか」なんて会話が続いてしまう。

よどみさんは、こういう場所でのお話は、あなたも私も仲間だよね、という以上の意味はないのかもしれないなあ、なんてことを思いながら、ぼんやり、アイアール印刷の社屋を眺めていた。
すると、三階の社屋の真ん中あたりの窓、その下からひょっこり、顔が半分飛び出した。

「あっ」よどみさんは、思わず大声をあげた。
おかっぱ髪の女性のようだ。門にたむろする団体を見て、またひっこんだ。
ほんの一瞬の出来事。それでも門の前にたたずむ債権者一同のなかで、ほかにも二三、気づいた人がいた。

「出た!」
「出たね!」
「社員、社員だ!」
「引っ込んだ!」
という声が飛び出し、どこどこ、とか、あそこあそこ、とか指さす人もいる。
するとまた同じ窓の、下の方から、ひょっこり、同じ顔が出てきてこちらを見た。

「あっ、また出た!」
そしてまた、すっと下に隠れる。
「あっ、引っ込んだ」
すると、またひょっこり顔を出す。

「出た!」
「引っ込んだ!」
「また出た!」
「引っ込んだ!」
「あっ、あっ、また出た!」
「あっ、また引っ込んだ」
「あっ、あっ、あ」

「古い温泉宿にある、すすけたゲームみたいですね……」と、よどみさん。
御前崎部長は苦虫を噛み潰した顔で「モグラたたきかよ……」。

すると、背後から「チキショー!」と叫ぶ、甲高い男の声がした。
灰色のコートを着た老人男性が、よどみさんの脇から出てきて集団の前方へのたうつように移動し、ぬおお、という掛け声とともにロマンスグレーの髪をなびかせながら門の上を両手でつかみ、足で鉄柵を蹴ると、まるで器械体操の選手のような身のこなしで、ぐいっと乗り越えた。

どこかから「おお、すごい」という声がした。
老人は着地するとそのまま駆け出して、会社の玄関にたどりつき、ガラスの自動扉を、どん、どん、と叩きだす。
「やれ、やっちまえ」という声が、よどみさんの斜め後ろから聞こえてきた。
老人は、なおも、どん、どん、と扉を叩いた。
その姿を、みんな固唾をのんで見つめていたが、老人は突然叩くことをやめ、まるで電池が切れた玩具のように、その場に、ぐたっと座りこんでしまった。
つぶやくように吐いた「殺してやる……」という声が、風に乗ってかすかに聞こえた。

三階の窓からは、もう誰も顔を出さなかった。
風はどんどん冷たくなってゆく。近くで誰かが鼻をかむ音がした。

これ以上何も起こらない場所でなにかを待っていてもどうにもならない、と判断した部長とよどみさんは、正午前に現場を離れた。
御前崎部長に味噌ラーメンをおごってもらったよどみさんは、午後一番に会社に戻り、朝の作業の続きを始めた。
けれども、なんだか気が散って、似たような作業をいくつもこなしてきたのに、どうにも頭のなかから文章が出てこない。
無慈悲な世間の風に、うっかり、さらされてしまったからだろうか、よどみさんは、ラーメンのぬくもりでは太刀打ちできない、得体のしれない、肌寒さを感じていた。

ふと、窓から見える電線に、まるまると肥えた雀がとまっているのが見えた。

首をちょこちょこ動かしていたその雀は、視線に気づいたのだろうか、ぴたりと動きをとめ、よどみさんを、じっと見た。
よどみさんも、じっと見た。
雀と見つめ合いながら、よどみさんは思った。
たとえば、この、まるまると肥えた雀が5メートルくらいの大きさだったなら、きっと、ガバッと抱き着いて、ぬくぬくとあたたまることができるのに。
心も癒され、きっとポカポカすることだろう。
そんなビッグな雀のもとに、あの、鉄柵を乗り越えた老人も、会社から出るに出られず外をうかがうしかなかった社員さんも、いろんな損害を被ったみなさんも集まって、みんなでぎゅっとハグすれば、この世界を覆う得体のしれない肌寒さも、きっとどうにかなってしまうのではないだろうか。

窓をぼんやり見たままそんなことを夢想していた、よどみさんは、
ごほっ、ごほっという神林の咳で我に返った。

いつのまにか、よどみさんのデスクの隣には、この仕事の担当営業の藤木が立っていて、よどみさんを凝視していた。
若手の稼ぎ頭で、端正な顔立ちとリーゼントが特長の社員である。

「淀さあ、あの、あれ、今日のやつ。あれって、もう、できてる? できてる?」。刃物をザクザク振り下ろすような、きつい早口。
「あ。すいません、もうちょっと……」

よどみさんがそこまで言うと、藤木は心霊現象を目撃したように眼をまるくし、次いで鋭い視線でよどみさんをにらんで
「(・д・)チッ」
と舌を打ち、くるりと回れ右をして、去っていった。

稲妻を思わせる、あまりのやりとりの短さに、よどみさんが、ぽかんとしていると、「態度悪いな。冗長してるよ」という神林のつぶやきが聞こえてきた。

よどみさんは、それ、冗長じゃなくて、増長じゃないですか、と訂正していいものかどうか迷ったけれど、とにかく、営業を怒らせるほどの事態になっていることを、たったいま知ったので、遅れを取り戻すべく、無言のまま、パソコンの画面に集中することにした。

すると、ふたたび「冗長してる」という声がして、よどみさんが顔を上げると神林は真剣な顔をしてパソコンの画面を見つめ、一心不乱にキーを叩いていた。

その日、よどみさんは午後七時すこしすぎに、ようやく原稿を提出した。
社内ネットで関係者全員にメールするとともに、すでに退社した藤木のデスクの上に、すいませんでした、とメモを添え、プリントアウトしたものを、そっと置いた。

その翌日。暗くて寒い、じめじめ湿った灰色の朝八時半。
よどみさんは白鳥湖公園前バス停で降りると傘をバッと広げ、ところどころに水たまりのできた公園をまっすぐにつっきり、冷たい雨に枝を濡らす桜の木々を眺めながら、白鳥湖のほとりにある三階建てのビル、レイクサイド・デザイン社をめざした。

濡れそぼる公園のベンチには、誰もいない。
よどみさんは、傘の柄を、ぐっと握ってスタスタ歩き、会社のドアをくぐった。

重い手ごたえのタイムカードを押すとほぼ真っ暗な階段を早足で上がり、三階・企画部室の窓際にある自分のデスクへと向かう。
今日のデスクにもメモが置いてあった。
メモを手にとると、そこには、こんなことが書かれていた。

やせ蛙 負けるな一茶 これにあり ―― 小林一茶

よどみさんは、小首をかしげた。
別の意味ですこし驚いたので、こう言ってみた。
「これ、まんまじゃないですか」。そして向かいの席で腕組みをしている神林を見て、繰り返した。
「そのまんま、小林一茶じゃないですか」

神林が真剣な顔で言った。「そういうときもある」。
そして、ひとり、うなずくと「人間、どんなときだって、ある」。

言い終えると神林は険しい表情のまま、鼻から、ふーっ、と息をついた。
早春の冷えた空気のなかで、鼻の穴からふきだす二筋の白い息が見えたような気がして、よどみさんは思わず、ぷっ、と吹き出した。

「まあ、そうですよね」と、よどみさんはつぶやく。
そして手にしたメモを、セロテープでデスクの隅に貼った。

「じゃあ、今日も一日、がんばりますか」よどみさんが、そう声をかけると、神林は笑顔でこぶしを握り、親指をぐいっ、と立てた。
「今日も、おはよう!」

よどみさんも、眉をしかめながらほほ笑み、言った。
「おはようございますー」

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