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最高に豪華で下劣で愚直で誠実な「映画の映画」、『バビロン』がやりやがった話

バビロン観てきました。バビロン、観てきました。

セッションが10年くらい前で、さらにララランドが7年前くらいらしい。どう考えても3年前くらいやろとか思っている自分の加齢が今は一番怖い。
どれだけ経っても自分の映画ベストの上位にセッションが離れてくれる気配がない。いつになれば更新されるものに出会えるのだろうか、あるいは更新されないまま人生を終えられるのだろうか。

思い返せばセッションを観たのはWOWOWの録画、ララランドを観たのは中3の3月の理由はなく病んでた頃。

今でもララランド冒頭のシーンを観て意味もなく号泣したのは覚えているし、デミアンチャゼル監督の作品にはなんか、そんなパワーがあると思っているし、信じている。

何年も何回もこの2作は観てきた。自分の人生ベストはとりあえずセッションが間違いなく入っているし、なんならさっき家に帰ってきてからパンを焼きつつ最後の数分のシーンを流していた。

そんなこんなで人生の約半分お世話になり続けているデミアン監督の作品たち。一体今回はどんなものになるんだろうなぁと思って観に行った監督最新作の『バビロン』

やっっばかった。頭おかしいわあの監督。もう「やりやがった」以外の感想に勝る言葉が先に出てこない。

超豪華俳優陣、豪華絢爛なセット、音楽、音楽、音楽、そして支離滅裂なのに奇跡的に整合性のある脚本。

これを一つに混ぜ合わせてそこにドラッグ・暴力・セックス・エゴイズムを少々…と見せかけてアホみたいな量ぶちこんだのに何故か後味がちゃんとしてる意味の分からない映画。

ララランドでは煌びやかで華やかに希望を思わせる圧倒的なダンスだったのに対し、今作バビロンでは何が冒頭で起こったと思う?

俳優のソロ?違う違う。さらにスケールのデカいダンス?違う。

小間使いが頭から象の糞(下痢気味)を被り続けます。えぇ。身構えましたとも。

バビロンね、あれ一言で表すなら「漫⭐︎画太郎が作ったニューシネマパラダイス」です。これについては後述します。

1920年代のまだ映画に音声が無かった時代。映像やそれを補完する言葉が娯楽になっていた時代が、このバビロンの舞台。

映画を作りたいわけではなく、「長く続く、何か大きなものの一部になりたい」と思い続ける男、マニー。

カリスマであり、カリスマで在り続けることに縋り、傲慢とは違う情熱に満ちた男、ジャック。

スターは自分がなるものではなく、最初からそうなっているものと根拠なき自信を自由自在にしている女、ネリー。

音声映画が生まれ、映画に「無声映画」の区別が生まれた動乱の
時代に、大義でも野心でもなく、ただあらゆる関係者たちによる文字通りの犠牲と使命感によって作り上げられる映画という「何か」にマニーは魅入られ、呪われるかのように生き続ける。

いわばこの映画は「映画」そのものを撮ったような概念の自伝的なものであり、そこに登場するキャラクターたちにさして意味はない。映画のこれまでと当時とこれからを描いた作品。ただそれだけの回顧録。

さて、この辺から今作の根幹に触れることが増えるので、まだ劇場で観ていない人は速やかに(スキを押してから)ブラウザバックしてください。
そして観に行かなくてもいい。実際に観るまでこの映画について「肝心なところを何も知らない」状態でい続けてください。

しっかりめに改行しておきます。









もちろん登場したキャラクターたちにはそれぞれ与えられた役割や出来事はあるし、それぞれのキャラクターが抱くコンプレックや美しさはある。

自分の価値は時代が作った事実に囚われたジャック、スターを自負しながらも一等星の輝きを纏えなかったネリー、そして「何か大きなものの一部」になっているかどうかを理解できないまま映画そのものから距離を置くことになったマニー。

映画の台頭によって演劇との比較が始まり、やたら映画が貶められることに対してブチ切れるジャックの長回しの言葉に、映画に「音」が追加されたことによるこれまでとは全く異なる撮影環境に戸惑うスタッフたち、映画と一括りにしても音の有無で評価が激変することに馴染めない俳優。
これらが映画のストーリーとしてではなく、あくまでも映画の変化に伴う「抗えない潮流」を描く、誠実とは異なる重すぎるほどの愛が監督によって注がれた今作。

そこに当時の時代背景に伴う下品で、下品で、鬱屈としていて、そして愚直なまでに最上級を追求する、その時代における最善を選んできたマニーの人生が重なる。

そして、それらの要素が気持ち悪いほどに重なり合う瞬間がラストにやってくる。少なくとも自分はそうだと思っている。

映画は、常に劇場にいた。ただそれだけの簡単なことを、紆余曲折があり、なんやかんや「映画を楽しむだけの大衆」となったマニーが映画から遠ざかり、代替品のようで空虚な家族とかつての映画スタジオを眺め、ふらりとなんてことない映画を観に行くシーン。

フィルムに映る俳優たちが生きているかも分からず、古典となった作品を少年が漫然と眺める。

どこで笑っても泣いてもよく、ただ映画が流れるだけ。

ただそれだけ、それだけのことに全てを費やした男の「答え合わせ」が唐突に回収されていく描写こそが、今作のテーマだったのではないか。そんなことを同じくぼんやりと映画を観ていた自分も考えていた。

全ては映画にあった。往年の歴史を変えた作品たちが数フレームごとに切り替えられ、古典から比較的最近の自分が公開当時に観た映画になるころ、映画はこれからも続くとばかりにぷつりとエンドロールを迎えた。

またあいつやりやがった。

そう書いたのは今作もラストで一気に勝負をかけて、さらに終わらせたから。

そんな無茶苦茶な畳み方ある!?と頭をバグらせながら移り変わり続ける映画の濁流に呑み込まれて、気づいたらエンドロールに入って、終わってた。

いやこんなことある??と思いながらも、あの監督なら、あいつならやると思わせられる謎の奇妙な安心感と信頼感に包まれつつ、よく分からない多幸感と圧倒的な疲労感に頭をやられて映画館を出た。

そんな気分のまま、行きたかった喫茶店でコーヒー飲みつつ一服したろ!と思っていたらまさかの27日から2日?3日まで臨時休業をしていたので泣く泣く喫煙可能な喫茶店を求めて彷徨った結果、まさかの350円のコーヒーが出る昔ながらの、昔から時間が止まっていたみたいな喫茶店に巡り合えたので満足している。

ここ1週間、自分の人生で多分一番ポップコーンを食べた週だった気がする。多分今自分の血液を分析できるなら2割くらいキャラメルポップコーンが占めているに違いないくらいには食べた。今度シネコン別ベストポップコーンを決める記事でも書こうかしら。

そんな記事でした。観た人いればぜひコメントで絡んでください。ではまた。


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