穢を捨て浄を欣い行に迷い信に惑い心昏く識寡なく悪重く障多いこと

 恒例の勉強会に久しぶりに参加できた。ここ最近自分の中で勉強とかに対するやる気がことごとくなくなっていて鬱か?これ鬱か???みたいな感覚にあった中で参加できて久しぶりに自分の頭の中に水をやった気分。

 さて、聞いていて印象に残ったから早速調子乗ってタイトルにしてみた。よく高校生くらいまでの学生がラインの一言に好きな歌手の歌詞の一部を載せて(俺わかってますよ?)的なやつするあれです。大学生になって不完全燃焼の学生時代を取り戻そうとしているのも大概見苦しいものがある。

 このタイトル、少しずつ簡単に読み解くとこうなる。

 「穢を捨て浄を欣い」(えをすてじょうをねがい)、つまりは「げんを担ぐ」こと。自分にとって都合の悪いことや信じたくないことを捨て、救われるようなことの意味や信じたいことや都合の良いこととかに縋ろうとすることで、「行に迷い信に惑い」(ぎょうにまよいしんにまどい)とは、いいつもりでしたことがよくない方向に進んでどうすればいいか分からなくなること。

 「心昏く」(こころくらく)は大きなショックなどで心が真っ暗になってしまうこと。そうなれば「識寡なく」(さとりすくなく)、いろんなことを知っていたとしてもどうすればいいのか分からなくなることに繋がり、最後には「悪重く障多いこと」(あくしげくさわりおおいこと)、色々なことで自分の思う通りにならなくなってしまうこと。となってしまう。

 こうはなりたくないと思ったかもしれない。でも、自分たちはみんなこう。都合の良いことに縋ってしんどいことからは逃げようとするしそれでもどうしようもなくなったら勝手に絶望して自分の好きなようにできないと嘆く。

 ではどうしてそうなるのか? それは自分を失っているから。自分を取り囲むあらゆる悩みや疑問に対して向き合い答えを探すこと、それが「本願」となり得るということ。

 これがなかなか難しい。本願を信じるということはそれ即ち自分自身の人生を、そして自分自身を信じることができたということに他ならない。それだけのことにたどり着くことが果たしてできるのか?

 自分たちの日常生活において「遇いがたくして今遇うことができた」と心から言うことができるのか? そんな日常を送ることができているのか? そんな感動を求めながら今も生きている。

 このところ親鸞の考えを読み解くことをしている。読み解くなんて書くのも中々失礼だけれど()

 それでも親鸞の言葉に触れることで自分たちの人生が少しでも好転するかもしれない、自分の人生に感動を見出せるかもしれない、本願に「遇う」ことができるのかもしれない。

 決してこの読書会は親鸞について詳しくなるためのものではない。自分がどれほど自分を失っていたことに気づくことができるのか、そんな自分に出遇うことができるかが挙げられていた。

 そこで「劣等感」という考え方について議論になった。劣等感を抱くということは「自分を失っていないか?」ということ。この読書会は最年少の自分から何十歳も年上の先生がたも参加されている。幅広い世代の中で劣等感とはなんぞやといったことから劣等感はポジティブな方向のものなのではないか? みたいな話をしていた。

 自分と誰かを比べることで自分より上、同じくらい、そして下を探してしまう。そこでさらに上を目指すのか、それとも諦めてしまうのか、はたまた下を見て満足する、安心してしまうのか。

 ではどうしてそうなるのか? それは経験とともに自分を貶めてしまうことであったり成長を重ねることであらゆることに意味を求めてしまったりと自分の世界を広げてしまうかなのかもしれない。

 先生曰く「『私』を認識してから死ぬまで自分と他の人が同じだと認識することは不可能」らしい。

 確かに自分を一個体として認識してしまうとそこから先あらゆるモノとは境界ができてしまう。自他を分断してしまうこととなる。世界を知ることは即ち「区切り」を設けてしまうことなのかもしれない。それこそが親鸞の「自他一如」なのかもしれない。気がする。

 Queenのフレディ・マーキュリーはこう言ってた。「コンプレックス(劣等感)はステージに上げた瞬間ロックとなる」と。

 なんとなく意味が似ているような似ていないような。

 劣等感についてはまたどこかで取り上げたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!