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本気のパラリンピックが見たい
箱根駅伝があった。正直駅伝、そしてマラソンが苦手だ。見るのはまぁ嫌いではない。見ていて応援よりも倒れそうなのではないかと心配してしまう。問題は「する」方のマラソン。
自分が走るのが苦手なこともあったのと、それに輪をかけてマラソンは正義かのように言い続けてきた学校の方針のおかげで大嫌いになった。
走り方も習わないうちから言われる「とりあえず走れ」の号令、元々走ることが得意ではない自分たちのような学生に全くされない指導、走れる人たちのあの下に見てくるうっすらした笑う顔。そういうところがとても、とても嫌いだ。
自分のペースで音楽とか聞きながらきちんと走り方とかを勉強して走る「ランニング」は嫌いじゃない。しんどいけど嫌いじゃない。
多分そういう環境に恵まれなかったんだろう。
今回書きたかったのはそんなことじゃない。
本気のパラリンピックを見たくないか? ということが今回書きたいこと。
大前提として、パラリンピックはこれまで本気を出していないなどの意見ではない。これまでにも沢山の凄い記録を見せられてかっこよさに感動させてもらったことは何度もあった。
何をもって本気とするか、それは人間以外のパーツに設けられている基準を緩和した状態で協議を行うこととかだとする。
例えば義足に超反発する素材を使って極限まで記録を伸ばすことに特化した義足を作るとか、筋肉を使うよりも遥かに力を出せる構造の義手を装着してもらってパフォーマンスをしてもらう。みたいなもの。
生身の人間、差別的なニュアンスをあえて使うけど「五体満足」の人間よりもどこかに障害があったりする人の方が可能性があるのではないかということ。
仮に、足が無い方が本来の人間の足よりも発達した義足を装着したら?
耳が聞こえない方が聴力の代わりに別の感覚を鍛えてそれをサポートするようなマシンを使ったら?
去年の箱根駅伝で散々言われていたランニングシューズに仕込まれている反発するボードなんかよりもぶっ飛んだ試合が見られるのではないだろうか?
普通よりも限界がある人がモノづくりの限界に挑んだ最高傑作を使って戦いに挑む方が、人間の限界を超えることになるのではないだろうかという妄想でした。
こんな話をバイト先のレストランに来られた足が不自由なおじさまとしていたら話が続きすぎて裏で怒られたのもいい思い出。
「僕はね、パラリンピックはもっと商業寄りになっても良いと思うんだよ。見せ物とかって意味じゃなくて、プロとプロの意地のぶつかり合いを見せて欲しいんだよ」
長押し「あ〜……レギュレーションぶっ壊すとかってことですか?」
「まぁそんな感じでもいいよ。だって見たくないかい? 障害者が余裕で健常者、それもアスリートの記録破るところ!」
長押し「ちょっと…いやそれめっちゃ見たいです!!」
みたいな会話をしていた。
実際にそのお客さんは足が悪いならF1エンジンでも積んで爆走してやろうかと豪語していた。あの人ならやりかねないと思わせるほどの人だったのがさらに怖いところ。倫理的な部分に背く面もあるかもしれないけどその辺をクリアしたら面白いことになりそうじゃないか?
でも見てみたくない?
普通の人間の足よりも軽くて硬くてしなやかな骨で出来た足で普通の人の記録を軽々と更新するパラアスリートの姿。
自分は超見たい。多分次の次の次のオリンピックではパラリンピックが消えると思う。オリンピックの中に健常者も障害者もいて、互角レベルの戦いをすると予想している。