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見えていない,気づかなかった,見ないことにした消費について(ラストマイル感想文)

ラストマイルを観ることができた.観たものの,咀嚼をし続けて反芻をしてもなお,まだ消化することが追いついていないことばかり.友達がちょくちょく観た声を聞いて,そろそろ感想戦がしたいと思っていたから,ちょっとメモがわりに書いてみることにした.がっっっつりネタバレするし,自分の主観と考察がごりごり入っているので,まだ観ていない方やそういうのが苦手な方は,「ネタバレをする」と書いた部分以降はブラウザバックを推奨します.とりあえず観に行ってください.本当に.よろしくお願いします.

何が欲しい?今欲しいものは?欲しいものリストは際限なく膨らみ続け,モノだけに限らず欲望が生活においてはほぼ全てにおいて介在する.

あれが欲しいこれが欲しい全て欲しいただ虚しい.そんなどこかで聞いたことがあるような曲の一節が頭をよぎる.

そう.全部欲しい.全部手に入れるにはどうすればいい?答えは簡単だ.全てを手に入れればいい.どだいそんなことは不可能なわけで,どんなフィクサーだって長者番付1位の人であったって不可能だ.

そんな全てを「全て」かもしれないと錯覚するほどの眼に見える全てを縮小した巨大な通販サイト,デイリーファウストで,事件は起こった.

欲しいを直感的に昇華できる携帯電話で事件は起こった.

突如爆発する宅配便から物語は始まった.

新しくどこからか赴任してきた配送センター長のエレナ.彼女が着任した瞬間に起きた爆発事件.

出荷されたのは,奇しくもエレナの赴任した配送センター.爆弾どころか荷物の持ち込みすら許されることがない,入構には手荷物検査ゲートまでもを必要とし,メガネやメモ程度しか許されることがない.そんな鉄壁のセキュリティで?爆弾が?

不可能であると思われたセンター内での事件は,様々な憶測と揺らぎによって,さらにいくつもの爆弾が作動する.

オフィス,家,お店…無差別に,淡々と,何万何億点もの商品が詰まったセンターから商品は出荷され続ける.

箱を開けるまでは何が入っているのか分からない.そんな不安が箱に詰まろうと,ベルトコンベアは流れ続ける.

爆弾の混入すらも瑣末なこととして「流されていく」,顧客ファーストという魔法の呪文によって維持される物流業界において,誰が,どうやって,どうしてこんなことが起きるのか?あるいは「起こせたのか?」が淡々と続く.アンナチュラルやMIU404によって続けられてきたユニバースのブラックフライデーで起きた事件の話.

そんな話だった.ここからしっかりネタバレをするので,観に行ってから進めてください.








これくらい改行したらいいでしょうかね.感想文書き始めます.

こんなに「消費」をする/されるを無機質に描かれるとは思わんかったよラストマイル.もっとこうさぁ,物流センターで起こった事件をアンナチュラルのUDIとMIU404の4機捜がタッグを組んで解決に向かう!!とかやと思ってたよマジで.最後特撮の春映画みたいに全員集合してなんか大団円で米津のEDが流れて「は〜おもろかった.野木先生ありがとう〜!!塚原さんありがとうございました!!新井P今後も続編よろしくお願いします!!!何回観に行ったらいいっすか!?」で終わると思ってたよ.

なんでだよ.どうしてこうなったよ.重っってぇって.ラストマイルってそういう意味だったのね.なるほど?こりゃまたでっけぇ爆弾お渡しされちゃったぜ!!

自分の中で「映画だからできること」は派手な爆発とか,豪華キャストとか,ロケ地とか,そういう部分の厚みのことだと思ってたのに,全然違った.テレビじゃ流せない,万人受けすることがない重さのボールを,この映画を観にくる人に,一旦置いてもいいから受け取ってほしいと信頼して投げられたのが苦しくも嬉しい.

「消費をする」ということ,「消費をされる」ということ.それが意識的であろうと無意識的であろうと淡々と描かれてきたように感じている.自分の中のラストマイルのテーマは『消費』です.

欲しいものがワンクリックで買えて,早ければ次の日には届く.その便利は,一体何が担保している?

世界は誰かの仕事でできている.とはよく言ったもので,本当にそうだ.『誰か』つまりは名前がありながらも,名前を職業としてしか認識されない人ばかりだ.駅の掃除をしてくれているおばちゃんも,大学の守衛さんも,普段宅配をしてくれる運送会社のお兄ちゃんも,よく考えれば名前なんか知らない.自分の世界を構築してくれているにも関わらずだ.だからといって不要ではない.どちらかといえば,社会において還元できる要素がほぼ無いのにのうのうと生きている自分の方が,必要か不要で考えたら不要でしかない.

自己肯定感が低いだとかは置いておいて,心底自分に価値がないと思っている.稼いでいるわけではない,ただ研究をしている.その研究も別に社会を劇的に変えられるわけではないし,その研究で誰かが変わるわけでも救われるわけでもない.うんこ製造機とはよくいったもので,世が世なら肥料に変わるうんこの方が価値があるかもしれない.きっちり食事をしているから,江戸時代なら確実に偉大な排泄をした人間としてやっていけることだろう.

それでも,要らないわけではない.ただそこにいることで嬉しいと思う人はいるし,あなたがいなければ生きていけない人だっている.
そんな世迷い言は,レールにのった人生では許されることがない.死んでもラインを止めるなと,消費に支配されて動き続ける配送センターでは,ヒトの命は代替可能「品」でしかない.ヒトが1人死んで倒れた.それによってラインの稼働率が下がった損失の計算のほうが先にされてしまう歪さが,あまりにも生々しい.

「命に勝る金はない」だとか「命はプライスレス」なんてものは,自分自身の価値がそれなりにある側の人しか許されない言葉ではなかろうか.少なくともあの場所で死んだ山崎にその価値はなかった.

これよ.アンナチュラルで描かれた「命あっての何か」やMIU404で描かれた「命に関わる前に止める」みたいな,命がある限り何度だってやり直せる.このテーマを踏み躙ったのが今作ラストマイル.

命を懸けて,いや多分山崎はそこまであの行為に大義を抱いていないだろうけど,命を懸けた行為が,ただただ規定のラインを止めたバグとして処理がされ,せいぜい数秒間程度しか世界に対して主役になることがなかった彼は,どれほど苦しく,空虚だったことだろう.誰がその虚しさを贖うのだろうか.大元の企業体質が悪いのか?

誰も悪いわけではない。自分たちは欲望に呑まれてしまった。「欲しい」はもう止められない。止まりようがない。その「欲しい」を満たすために消費をする誰かのことなんか目もくれず、今欲しいを消化するために誰かを間接的に消費する。搾取する。便利な世界のために、お客様ファーストを行使する。目に見えない介在する存在のことは、とことんまで目に入らないから。

お客様ファーストはそのプロダクトへの依存を促すためのもの。今あれが欲しい。それがすぐに届く。その所有にはどれだけの過程があるのかなんて,目には入らない。だってそうだもの。手に入る過程なんて気にすることはない。手に入ったが重要なんだもの。

そう思う有象無象ファーストによって壊れたのが山崎だ。山崎は壊れてはいない。あの瞬間、流れ続けるラインの音に対して、流れ続けるラインが止まる瞬間を心から望み、秒速2.7mが秒速0.0mになるためには、その瞬間のコストに自分の70kgがあればよかった。そうか!そうなんだ!止まるぞ!止められるぞ!どうしてこの結論がすぐに出なかったんだ!?なら実現しなきゃ!!そう思って飛んだんだ。あの跳躍は、そうせざるを得なかったわけではない。そうすれば良かったんだ。解放されるにはそうすれば良かったんだ。そんな希望みをかけて飛んだにすぎない。

度々電車のホームに体を投げ出そうと思った日がある。今飛び込んで、体を四散させ、思考を停止させられたら楽になれる。その「楽になれる」を引き留めてきたのが、でもまぁ来週ジャンプ出るしなぁとか、次あの映画が公開されるよなぁとか、そんな未来に引き止められ、脅迫され、強迫され、誰かの作る何かで生き延びてきた自分に重なった。この流れを自分だけの劇場で観ていれば、確実にまだ2/3ほどしか残っていないポップコーンに酷く吐き散らかしていたに違いない。楽に、楽になりたいんだ。でもラストマイルが公開されるから生きてきた。生き延びてきたんだ。そう思えてきた。

でも、山崎は違った。そんな未来の希望だとか、今日の昼ごはんだとか、今度やる映画だとか、仕事が終わったら会える愛おしい彼女だとか、そんなことは頭によぎることのない。ただ、今、自分が有無を言わさない整列を乱す障害になれば楽になれるんだ。そんな使命感にも似た強迫観念によって、まるでいつものルーティンをこなすように、軽やかに、まるで覚悟を決めて死ぬことを選ぶわけでもなく、飛んだ。この一連の行為が、このフィクションを観る人にとってどれだけ、そしていくつもの観客にとって胸を詰まらせたのだろうか。

飛ばなくたって、どうでもよくたって、明日届くはずの荷物が届かなくたって、彼をただ山崎佑に恋していた、愛していた筧まりかはどうだってよかった。ただ、あの部屋に「ただいま」と帰ってくる山崎佑を、佑を、「おかえり」と言える安寧を、愛おしさを尊んでいただろう。

私は今愛おしい誰かがいるわけではない。そうであっても、愛おしい存在に受容される瞬間に恋焦がれている。苦しくて苦しい何かを「頑張ったね」と、無理解な一言で終えてくれる瞬間が、欲しくて欲しくて仕方がない。欲しい。ただ黙って抱きしめて欲しい。こんな不良品であってもそのままでも、それでも頑張ったと無責任に褒めてほしい。

そんな一瞬のきらめきすら、山崎は振り解いた。

世界中が敵になったって、私はあなたの味方であり続ける。そんな甘ったるい戯言を信じられるほどの余裕すらなかった。隙間すらなかった。そして、色々な感情を混ぜながら、いやきっと混ぜちゃいない。ただ無心で、このラインを止めようとして、飛んだ。跳んだ。今飛べば苦しい瞬間や問題が一瞬止まる.そう信じて.

そして、その衝動的な数秒は、数秒の「ロス」として帰結する。あの現場における人間のコストは限りなくゼロに近いから。

アンナチュラルやMIU404は、終わった時を動かす、時が止まる前に、ゼロから、ゼロになる前に動かし続けるための話だった気がする。

本作は、終わりきって時が止まった瞬間が、コンマ数秒後に動き出す物語だった。第一の爆発は、既に終わってしまった瞬間だったから。

最初の爆発はどうすれば止められたのだろうか。最初の爆発は止められるものだったのだろうか。

止められないし、止められる言葉も好意も贖罪も明確な謝罪も償いも、責任の帰結も、爆破を志す瞬間までは何もなかった。止められなかった。目に映らなかったから。

そして山崎もまた,責任のなかで責任から目を逸らした結果,責任を果たすために「死ねない」でも「死なない」でもなく「まだ眠っている」のかもしれない.

起きて一言何かを話す山崎を待つ人はもういない.改めて「おはよう」と声をかける準備をしていた人はもういない.皮肉なことに,2人をつなぐのは共通する絶望だけなことが何とも苦しく平行線の真ん中に在り続ける.そして,これが消えることは今後絶対にない.あり得ない.なぜか?欲望は止まらないから.

毎日自分たちは消費をし続けるし,消費され続けるし,どちらであってもその自覚すらないままに生活は続く.消費をするだけの存在になることはおそらくあるだろうけど,方法はあっても実現可能ではない.といったところが,ぎりぎり社会に対して安心できるところなのかもしれない.

多分きっと,今作を観た人たちによって世界は善くなることはない.多分劇場にいた観客の何人かは何か荷物が届くことを忘れていて不在票を帰ってから見ているし,気にせずに電話をするだろう.劇場のグッズが完売でネットで買おうとする人たちは,そこに介在する存在を気にすることもないだろう.欲しいは止まらない.

そして,この感想文を書いている自分も,自分を消費しつつその嬉しさに浸り,誰かに消費されることを心待ちにしている.消費されることすらないことの方が孤独を感じてしまう気すらしてきた.

きっとこれが誰かに読まれるということを願って,一旦締めよう.終わらない気がしてきた.書きたいことが多すぎる.多分続きをまた近々書きます.これでも1週間かけてぽつぽつ書いてたんです.

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