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私が、私が、魚を、売った。食べさせた

昨日から、頭を離れない親子の話。昨年のおわり、相思社に来て、「話を聞いてくれるだけでいい」といい、語って帰った親子。1950-60年代、山間部に住みながら、水銀の汚染の濃厚だった不知火海で仕入れた魚を30キロの山手まで持ってゆき行商をしていた親。1950年代に生まれた障害をもった我が子。親が売った魚を食べつづけた近所の別の母親も、障害をもった子を産んだ。話の最後に「私たちが、売った魚が、誰かを苦しめているかと思うと…」といった子どもさんの言葉。その親子が、相良村の緒方俊一郎先生に会いたいと連絡をくれて、昨日、同行をした。
親子とも介助が必要で、高校生の子に手伝いを頼んだ。患者さんと駅で待ち合わせ、相良村へ。私が運転をしながら親子へ質問をし、答えたことを高校生が筆記した。お母さんは重い話題の中で、始終言葉は少ないが、時折、かっかっかっ、と明るく笑った。
到着後、車中で聞き取った生活歴や症状を緒方先生に伝え、診察が始まった。一日中つづく頭痛や、手足のしびれ、体のだるさや痛み、耳鳴りと足の腹のつり。視野狭窄や感覚障害の検査、指鼻試験で、次々と症状が現れた。診察中は、終始笑いがたえなかった。緒方先生の診察は会話が多い。緊張して、怖い顔をして訪れた患者さんが、笑いだしてしまう空気を作る。緒方先生という人は、そうやって患者の信頼を勝ち取る。
診察が終わり、緒方先生が「胎児性水俣病の疑いが濃厚です」と言うと、子どもさんの隣りに座っていたお母さんが、ぎゅっと握って膝の上に置いていた両手を、顔の前に持っていった。ティッシュを手渡すと、目からぼとぼとと溢れる涙を拭いながら、「私が、私が、魚を、売った。食べさせた」と呻くように言葉をつないだ。するとお子さんが、不自由な口で「食べていくためには、魚を売らんと、仕方んなかった」「お母さんは、悪くないよ」と言った。私はもう、どうしたらいいか分からなかった。すると緒方先生が、「誰も悪くないの。毒を流した人が悪いの」と言って、「さぁ、お母さんはどうかな?」と、お母さんの前に移動した。
「お母さんは、ずっと手がしびれていて、震えていて、手がこんなに細っているんです」と、お子さんが母の手を取った。検査をすると、お母さんにも視野狭窄や手足の感覚障害があった。
検診は終わった帰り道、ご飯を食べに寄った。みんなは鶏料理を頼んだが、お母さんは「海鮮丼がある!」と喜んだ。魚を愛おしむように見つめて、幸せそうに食べるお母さん。行商をする傍ら、残った魚の加工をしていた話を嬉しそうに語る。正面に座ったお母さんの顔を見ながら、行商の仕事が、きっと本当に好きだったんだろうなと思った。食べるってなんだろうと考えた。昨年お母さんがいらっしゃった時に行商の道具や仕事の話を聞いて、この仕事が本当に好きだったのだろうと想像した。海が好きで、魚が好きなお母さんは、海から、魚から裏切られた。でもその海や魚を裏切ったのは、私たち人間。
駅での別れ際、お母さんが「また何かあったら子どもについて、来ますけん」と頭を深々下げた。
親子を見送った車のなかで、心が重かった。高校生が、「あのお母さん、ご飯のとき、「海鮮丼がある!」って言って喜んだね。本当に、魚好きなんだね」と言って、私は「そうだね」と言ったあと、「お母さんが泣いたとき、どうしようと思った。ああいうときは何と言えば良かったんだろう」と高校生に聞いてみた。そうしたら高校生は、「何も言わないで寄り添っていたらいいんだよ」と言った。「あんなに症状があったら大変だよね」というと、「病気は大変かもしれないけど、その人のアイデンティティだよ。その人から病気を取ったら、その人はその人ではなくなるよ」と言う。高校生が、少し前まで、持病のために長く入院していたことを、私は知っている。高校生はいつ、病気をそんなふうに捉えるようになったんだろう。その道のりを思った。「お母さんは泣いたとき、何を考えていたと思う?」と聞いた。お連れしたことは、本当に良かったんだろうかと思って。ひとしきり想像を話し合ったあと、高校生が「この話、やめよう」と言った。
「表に出てくる言葉というのはほんの断片で、人は、それよりも、ずっと多くのことを考えている。本人がこう、と思っても、本人すら気づいていない、無意識の考えがあったりもする。その人の言ったことのすべてが、その人の考えていることではない。だから私たちは誰かが『この人はこう言ったから、こう考えている』と、想像で判断したり、その人になりかわったようにして、ものを言ってはいけないんだよ」と言われて、私は恥ずかしかった。
今日、考証館にやってきた人らに、個人情報を隠しながら親子のことを話して、少しずつ心や頭が整理され、少しだけ楽になって、そしてまた、あの親子のことを考えている。
親が子が、せめて心だけでも、平安でありますように。
相思社を、これから、話を聞ける、語れる、そういう場所として維持しようと思った今日。小郡市立御原小学校のこどもたちや、千葉や玉名や岡山からの来館者のみなさん、考証館で私の話に耳を傾けてくれたあなた方の存在に、私は救われています。

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